07010102     阿部昇著『授業づくりのための「説明的文章教材」の徹底批判』を徹底批判する
                          にいがた国語の会&にいがた高校国語サークル 著   1998年8月  より

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 はじめに                                                                                                        

  以下の原稿は、「にいがた国語の会&にいがた高校国語サークル」が編集した「阿部昇著『授業づくりのための「説明的文章教材」の徹底批判』を徹底批判する」サークル誌に掲載されているものです。このサークル誌には、説明的文章の読みの授業を考える上で重要な問題提起が、阿部昇氏の著書に対してなされていると、私はとらえています。ただ、サークル誌ということで、多くの方の目にふれることなく埋もれてしまうのは、とても残念です。そこで、私のホームページ上で原稿を紹介させていただけないかとお願いして、ここに紹介できる運びとなりました。原稿の掲載を快諾していただいた五十嵐淳さんに感謝いたします。


『「説明的文章教材」の徹底批判』(阿部昇著)における「補足」と「まとめられ」を検討する
        ―――「シンデレラの時計」を中心に―――                         五十嵐 淳(横越中学校)

一.阿部氏が整理した「柱」と「柱以外」の関係

 「読み研」方式による説明的文章指導で私が現在一番頭を悩ませているのは、「読み研通信・第48号」でも述べたように、「柱」と「柱以外」の関係である。
 そこで、阿部氏の提案についても、この点にしぽって検討を加えてみたいと思う。
 阿部氏は、「柱」と「柱以外」の関係を『「説明的文章教材」の徹底批判』(P50)で下記のように整理している。

段落相互・文相互の論理関係

A 従属→被従属(含まれる→含む)

    a 推理的要素を含まない「→」

    (1)くわしく説明・例
    (2)補足
    (3)まとめられ

    b 推理的要素を含む「⇒」

    (4)理由・原因
    (5)前提

B 対等(並立)の関係「+」

    a 累加

    b 対比

 上記の「A従属→被従属」の関係の(1)〜(5)で目新しいのは「(2)補足」と「(3)まとめられ」である。「柱」と「柱以外」の関係を追究するために、ここでは、この二つの新提案について検討してみたい。

ニ、「柱」と「柱以外」の関係における「補足」とは何か

 阿部氏は「補足」について以下のように説明している。

『「@ 最近のアジア諸国の経済発展には、目を見張るものがある。A ただし、国によって若干の差はあるが。」という文関係の場合は、第A文が、第@文を「補足」するかたちで第@文に従属、ないしは含まれていると読める。』(前掲書P48)

 この説明は妥当だろうか。

 @文は経済発展の程度を述べているのであり、A文は国によって差があることを述べているのだから、P48の定義は「+」ではないか。少なくとも、「従属、ないしは含まれている」関係があるとは思えない。
 また、A文の「ただし、〜」「〜はあるが。」という述べ方は、多分に、「補足」を導き出そうとする意図を感じさせる。あらかじめ阿部氏の頭の中に@文を「柱」に設定しようとする意識があったために、記述もそれに引きずられたのではないか。

 例えば次のように書かれていても、「補足」といえるだろうか。

「@ 最近のアジア諸国の経済発展には、目を見張るものがある。A しかしそこには、国によって若干の差がある。」

 さらに、この後、国による「若干の差」について論が展開されたとすれば、なおさら@文を「柱」にはしづらい。
 「シンデレラの時計」 の分析で「補足」が出てくるのは、10段落と11段落の関係においてである。(次の節で第7〜9段落もあつかうので一緒に引用する)

[7]@とすると、シンデレラが聞いた鐘は、このような公共用時計の鐘だったのだろうか。A確かに、大きな鐘の音であれば、舞踏会の宮廷まで聞こえたであろう。Bしかし、それが十五分ごとに鳴っていたかとうかよくわからない。Cもしそうであれば、話は簡単である。Dが、もし一時間ごとに時を告げていたのであれば、それを開いて駆けだしたのでは何に合わない。
[8]@それならば、十五分ごとに鐘が鳴っていた時計はほかになかったのであろうか。
[9]@実は、公共用時計とは別に、十五世紀半ば、ぜんまい騒動の室内用置き時計が出現していた。Aそれは当時の最先端技術の産物で、主な製造地はドイツであった。Bこのドイツ製置き時計、しかも銀や青銅、宝石で飾られた蒙華な時計が、ヨーロッパ各地の王宮や貴族の館に置かれるようになった。Cおそらくシンデレラが招かれたお城にも、そのような置き時計があったにちがいない。D問題は、はたしてそれが、十五分ごとに鐘を鳴らしていたかどうかである。
[10]@わたしはいろいろの文献にあたってみたが、どうもよくわからない。Aヨーロッパを訪れるたびに、各地の博物館で時計を見て歩いたけれども、十六世紀に作られた時計の展示はあっても、実際、どこの博物館でも古時計が動いていたためしはない。Bしかも、十六世紀から十七世紀初めの時計には針が一本しかない。C一本の時針では、目で十五分を確かめるのは困難である。Dやはり、鐘がどのように鳴っていたかを確認しないかぎり、シンデレラの話のなぞは解けない。
[11]@そんなことを考えていたある日、一冊の本が手元に届いた。Aそれは「時計仕掛けのせ界−ドイツの置き時計と自動仕掛け一五五〇〜一六五〇」と題するもので、それを見たとき、わたしはあっと驚いた。Bそこには、百二十点の時計について、それぞれの鐘の打ち方が記されているではないか。Eそれによれば、多くの時計が十五分ごと、および一時間ごとに鳴る仕掛けとある。Dしかも、それらの製作年代は、すべて十六世紀末から十七世紀初めにかけての時期であることが明記されている。
『次いで第10段落で(当時の置き時計が十五分おきに鐘を鳴らしたのか)「いろいろの文献にあたってみたが、どうもよくわからない。」(第@文)と述べ、その解明の難しさをアピールした後で、第11段落で、ある本に「多くの時計が十五分ごと、およぴ一時間ごとになる仕掛けと」(第C文)あったことを提示する。 〈略〉 (第10段落は、第11落の発見を「(2)補足」するかたちとなっている)。」(前掲書P202)

 しかし、「シンデレラの時計」の10段落と11段落は補足の関係といえるのか。10段落と11段落をつなぐ論理は、時間の論理ではないのか。
 「ヨーロッパを訪れるたびに、各地の博物館で時計を見て歩いたけれども、〜、実際、どこの博物館でも昔時計が動いていたためしはない。」(10段落A文)「そんなことを考えていたある日、一冊の本が手元に届いた。」(11段落@文)といった記述をみるかぎり、ここは探求のプロセスを述べたところであり、多分に記録文的・随筆的なところであると思われるからだ。
 つまり、ここは、「柱」と「柱以外」の論理でくくるべきところではなく、時間の論理で考えるべきところなのだ。したがって、もともと、「柱」と「柱以外」の論理である「補足」を持ち出すことが無理なのである。こんなところに、阿部氏の記録文軽視(時間の論理軽視)の姿勢が反映していると言えないか。
 私が取り上げたところを見る限り、阿部氏の「補足」は、思い入れに引きずられて「+」の関係を読みまちがえたものか、本来時間の論理で考えなければならないところに無理に「柱」と「柱以外」 の論理を当てはめようとしたものであると思われる。

三、「柱」と「柱以外」の関係における「まとめられ」とは何か

 阿部氏の教材分析には実に多くの「まとめられ」が出てくる。ちなみに、前掲書の段落関係図・文関係図の中でそれが出てくるところを挙げてみる。{( )内の数字は「まとめられ」の数}

 P60(1)、61(3)、64(2)、65(1)、122(1)、123(3)、124(2)、126(1)、127(1)、129(1)、130(2)、151(3)、152(1)、154(1)、155(2)、174(4)、176(2)、179(2)、203(2)、234(3)、240(1)、251(1)、266(2)、268(1)、270(1)。

 これらのうち、関係図の中のすべての関係が 「まとめられ」のものも少なくない。まさに「まとめられ」のオンパレードである。いったいこれは何を意味するのだろう?
 阿部氏は「まとめられ」について次のように説明している。

「@ 鈴木さんは、フランス語・ドイツ語が話せ、そのうえタイ語も話せる。A もちろん日本語も話せるから、鈴木さんは、四か国語が話せるのです。」という文関係の場合は第@文が、「まとめられ」るかたちで第A文に従属、ないしは含まれていると読める。」 (前掲書P48)

 この部分を読むと、阿部氏は、「くわしい説明」が先にきて「柱」が後にくる場合を指して、「まとめられ」と呼んでいるようだ。
 このことは、「シンデレラの時計」 の1・2・3段落の関係について次のように分析していることからも推定できる。

「関係としては、第1段落が第2段落に「(3)まとめられ」その第2段落は第3段落に「(3)まとめられ」ていくかたちである。」(P201)

 確かに「くわしい説明」が先にきて 「柱」が後にくるというのは、一般的にはそぐわない感がある。したがって、分かりやすくするために、それを「まとめられ」と言うのは、一つの工夫だと思われる。
 しかし、もし私の推察どおり「くわしい説明」が先にきて「柱」が後にくる場合を「まとめられ」と呼んでいるとするなら、最初に掲げた阿部氏の「段落相互・文相互の論理関係」で「まとめられ」が「くわしい説明・例」の次に位置していないことが疑問になる。私の推察が当たっているなら、当然この二つはセットの関係なのだから並べるのが妥当だと思うからである。(いや、そもそもこれは並列にするほどの差異があるものなのだろうか)
 さらに、「まとめられ」という用語も気になる。後文の役割である「まとめ」との混乱を生み出さないかと思うからである。
 「シンデレラの時計」の具体的な教材分析の中で、さらに「まとめられ」の妥当性を検討してみよう。
 一番問題だと思ったのは、本文Tの「まとめられ」(7段落→8段落→9段落、前掲書P203)である。これは、私にとって相当に理解困難なところであった。
 阿部氏は次のように分析している。

「 以上の第5段落と第6段落を『前提』にして、第7段落の(中間的)『結論』が導かれる。『とすると、シンデレラが聞いた鐘は、このような公共用の鐘だったのだろうか。』(第@文)である。しかし、同じ段落で、その可能性について疑問が投げかけられる。『しかし、それが十五分ごとに鳴っていたかどうかよくわからない。(第B文)』
 そして、その疑問にもとづいて、他の可能性の追求が第8段落から始まる。『それならば、十五分ごとに鳴っていた時計は他になかったのであろうか。』この第8段落が、それ以前の推理と、それ以降の推理をつなぐ役割をしている。(第7段落→第8段落→第9段落と『(3)まとめられ』ていくかたちと言える)。」(前掲書P202)

 まず、「7段落→8段落」について、私はこれを、「許容できない飛躍」を含んだ「前提・結論」ではないかと考える。つまり、「しかし、それ(公共用時計の鐘−五十嵐・注)が十五分ごとに鳴っていたかどうかよくわからない。」からといって、一方的に公共用時計である可能性を消去し、次からは、公共用時計ではないことを前提として論を進めているからである。
 このことは、阿部氏自身も指摘しているところである。

「私は、『公共用時計』の可能性が高いなどと言っているのではない。それは、他の資料をあたる中で、あるいは可能性が低いということになるかもしれない。が、この文章の推論過程においては、筆者は『十五分ごとに鳴っていたかどうかよくわからない。』としているのである。そうである以上、それをいつの間にか何の吟味過程もないままに、可能性がなかったかのように推理を進めていること、そのことの問題性を指摘しているのである。
 これも、筆者が論理展開を明快におもしろくするために、あえ『「公共用時計』の可能性を無視してしまおうとしたと言われても仕方がないと言えるだろう。『論説文』としては、ここでも決定的な問題性を含んでいると言わざるをえない。つまり、ここからも前半の結論には『許容できない飛躍』が含まれていると言いうるのである。」 (前掲書P213)

 読みとしては、私もまったく同感である。
 にもかかわらず、つまり阿部氏は自ら「許容できない飛躍」としているにもかかわらず、「柱」と「柱」以外の関係では「まとめられ」にしているのである。なぜ「前提」ではだめなのか。そこが私にはわからない。
 しかし少なくとも、前述したような、「くわしい説明」が先にきて「柱」が後にくるという関係ではないことは確かである。
 さらに、「8段落→9段落」は、新たな課題の提示(「十五分ごとに鐘が鳴っていた時計はほかになかったのであろうか」)と、その追究の関係ではないかと私は考える。つまり8段落と9段落だけの関係にしぽって言うと、8段落が「柱」であり、9段落がそれを受けて「くわしく説明」している関係であると思う。
 いずれにしても、ここも、説明が先にあり「柱」が後にくる「まとめられ」とは考えにくい。
 となると、「まとめられ」とはいったい何なのだろう。ここまで考えてくると、阿部氏の 「まとめられ」は多分に恣意的で御都合主義的なところがあるように思えるのである。

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 以上の考察から、曖昧で多分に検討の余地がある「補足」と「まとめられ」を使うことは、「柱」と「柱以外」の関係を追究する役割を果たすより、安易な方向へ流れる危険性をはらむものであると思う。

人目のご訪問に感謝です。 カウンタ設置 2005.10.7