人目のご訪問、ありがとうございます。 カウンタ設置 2004.8.23

07010102     阿部昇著『授業づくりのための「説明的文章教材」の徹底批判』を徹底批判する
                          にいがた国語の会&にいがた高校国語サークル 著   1998年8月  より
   
 はじめに                                                                                                        TOPへ戻る

  以下の原稿は、「にいがた国語の会&にいがた高校国語サークル」が編集した「阿部昇著『授業づくりのための「説明的文章教材」の徹底批判』を徹底批判する」サークル誌に掲載されているものです。このサークル誌には、説明的文章の読みの授業を考える上で重要な問題提起が、阿部昇氏の著書に対してなされていると、私はとらえています。ただ、サークル誌ということで、多くの方の目にふれることなく埋もれてしまうのは、とても残念です。そこで、私のホームページ上で原稿を紹介させていただけないかとお願いして、ここに紹介できる運びとなりました。原稿の掲載を快諾していただいた五十嵐淳さんに感謝いたします。


『徹底批判』の「柱」設定を検討する  P52〜59     五十嵐 淳(横越中学校)

一、はじめに

 「読み研」の実践家が説明文や論説文を授業化するときに一番頭を悩ますのが、「柱」と「柱以外」の関係である。私自身もこの十数年悩み続けてきた。生徒にも「先生の授業は構造よみのときはいいんだけど、要約よみに入って柱がどうのこうのと言い出すと途端に分からなくなる」と言われたことがある。
 そのことについて私は、それは自分の力量が足りないせいだと思ってきた。しかし、それ以上に大きな原因があったことを最近ようやく理解した。
 私は、「柱」について、基本的な考え違いをおかしていたのである。そしてそれは、阿部昇氏がおかしている間違いでもある。
 では、最近になってようやく私が理解したことのいくつかを述べてみよう。

ニ、「柱」はまず構造よみで使うもの

 『授業づくりのための「説明的文章教材」の徹底批判』(以下『徹底批判』と記す)の「第二章 構造よみ」(P24〜P38)では、構造よみに「柱」がどう関わるかは述べられてはいない。つまりこれは、構造よみで「柱」を重視しない阿部氏の姿勢の表れである。
 しかし、それは疑問であると私は思う。
 大西忠治氏は、自身が考案した「柱」について、次のように述べている。

  問題は、この三つの部分(前文・本文・後文のこと←五十嵐注)をよみとるために何を客観的なよりどころにするのかということである。私はその場合に〈柱の段落〉という概念を導入することを考えついた。〈柱の段落〉とは、というより〈柱〉とは、他(文・段落)を包み込むような大きな内容をもった(文・段落)のことである。上位概念、下位概念という場合の『上位概念』にあたるような、文・段落のことである。 (略) 〈柱の段落〉と〈柱でない段落〉との関係をよみとるで、三部構造をよみとっていくのである。

                                                                         (『国語教育評論』8号)

  こうした大西氏の「柱」概念を的確に理解したのが、第十一回・夏の大会で講演された小田迪夫氏である。氏の著作から引用してみよう。

「読みの指導にあたって、『要点とは、書かれている内容の重要な部分』(『小学校国語指導資料・理解の指導』一九ページ)とされ、それが『だいじな点を読みとりましょう』といった学習目標の対象となると、その本来の概念があいまいになり、あいまいなままそれが読解指導の最重要概念として受けとめられているようである。
 その点、大西忠治氏が要点を担うトピックセンテンスを中心文をと呼ばないで『柱の文』と呼び、要点にかかわる重要語句をキーワードと呼ばずに『柱のことば』と呼んでいることは、この要点概念を明確にさせる上に有効である。(中略) 結局、要点とは、書き手の文章構成法を理解し、書き手の表現法に即して内容の要点的理解を適性ならしめるもの、そのための段落理解の拠点となるもののことである。」
              (『説明文教材の授業改革論』一九八六年・ 青字→五十嵐)

 大西氏の「柱」概念は、ちょうど生活指導で「討議の柱」と言ったりすることや、文章や長い話を構想するときに「柱だて」と言ったりすることと共通しているのである。
 だから、「柱」はまず文章の流れをつかむ構造よみで意識されねばならぬものだと私は考える。
 構造よみで、私が柱概念が特に必要だと感じさせられるのは、本文の構造分析のときである.ところが、『徹底批判』では、本文分けについては次のようにしか述べられていない。

「ただし、構造よみでもう一つしておかなくてはならないことがある。それは『本文』そのものの構造分析である。短い単一の内容の『本文』ならば、特に必要はないが、多くの『本文』は、大きな文章の流れにそいつつも、いくつかの内容に分けて述べられている。だから、『本文』をいくつかの大きなかたまりに分けていくという過程がこの構造よみの段階で必要になってくる。
 具体的には『本文1』『本文2』『本文3』……といったかたちで、いくつかの段落のかたまりに分けていく。」(P31)

 この部分を読むかぎり、阿部氏は本文分けにさほどの困難を感じてこなかったようだ。そして、今までの多くの実践でも、本文分けでは「内容によって(話題によって)、いくつかに分けなさい」という指導言が採用され、この程度の指標でも本文分けはある程度可能であった。(しかし、この指標はいかにもあいまいであり、恣意的ではないか)
 だが、その場合でも実は読み手は「柱」を意識しているのである。
 例をあげてみよう。

[1]  中学生にとって大切のことは次のようなことである。
[2]  まず一つ目は、勉強に打ち込むことである。受験に必要な最低限の学力は身につけていなければならないからである。
[3]  次は、友達との関わりを大切にすることだ。学級でも部活動の中でも、仲間との友情や団結を育てることで人としての生きる力が大きく伸びるからである。
[4]  最後は、家庭での役割を意識することである。半分大人になった中学生にとって、家庭での役割を意識することは、自立の階段を上ることに役立つからである。

  [2][3][4]はそれぞれ別の話題であると言える。しかし、[1]があるから、この [2][3][4]はひとまとめになる。つまり、[1]が「柱」で、 [2][3][4]はそれを詳しく説明する関係だからである。構造よみをする場合、読み手は「柱」である[1]を頭において、それが包括する範囲を追っていくのである。
 このように「柱」が明確でない場合も、読み手は自分なりに「柱」(あるいは仮の小見出し)を想定して、本文分けをしているはずである。
 さらに、「内容」「話題」では、本文分けが簡単には決定できない文章もある。「内容」「話題」といった指標では水掛け論になって、なかなか論争に決着を見ないとき、「柱」を持ち出すことで比較的容易に読みが決定することは、実践してみればすぐ納得できることなのである。
 「ちょっと立ち止まって」 (桑原茂夫・光村一年)という論説文の本文Tを使って説明してみよう。

[2] 左のページの図は「ルビンのつぽ」と題されたものである。よく見ると、この図から二種類の絵を見てとることができるはずだ。白い部分を中心に見ると、優勝カップのような形をしたつぼがくっきりとうかび上がる。このとき、黒い部分はバックにすぎない。今度は逆に、黒い部分に注目してみる。すると、向き合っている二人の顔の影絵が見えてきて、白い部分はバックになってしまう。
[3] この図の場合、つぽを中心に見ているときは、見えているはずの二人の顔が見えなくなり、二人の顔を中心に見ると、いっしゅんのうちに、目からつぽの絵が消え去ってしまう。
[4] このようなことは、日常生活の中でもよく経験する。今、公園の池にかかっている橋の辺りに目を向けているとしよう。すると、橋の向こうから一人の少女がやって来る。目はその少女に引きつけられる。このとき、橋や池など周辺のものはすべて、単なる背景になってしまう。カメラでいえば、あっという間に、ピントが少女に合わせられてしまうのである。ところが逆に、その橋の形がめずらしく、それに注目しているときは、その上を通る人などは背景になってしまう。
[5] 見るという働きには、思いがけない一面がある。いっしゅんのうちに、中心に見るものを決めたり、それを変えたりすることができるのである。

 「柱」の段落は明らかに[5]であり、他の段落は[5]の具体的な例や事実を述べているという関係である。ところが授業では、[2]・[3]と[4]では違う事実をあつかっているのだから、別々にすべきだという読みが出てくる。確かに[2]・[3]は「ルビンのつぼ」の説明であり、[4]は「公園の橋と少女」のことである。
 この読みに対して明確に反論するには、どうしても5段落を問題にせざるをえない。[2]・[3]と[4]では確かにあつかっている事実は違うが、[5]が[2]・[3]・[4]を包括するので、ここは本文Tとして一つのまとまりになるのだ、というように。
 仮に「柱」という言葉を使わなくても、構造よみ段階で「柱」を問題にせざるをえない場合があるし、また、問題にすることでより明確により容易に構造よみができるのである。
  (それでもなお本文分けが揺れる文章がある。それは、「柱が弱い」、もしくは「ねじれている」、あるいは「ない」場合である。そのことについては後述する)

三、「柱」とは形式論理重視の立場から生まれた概念である

大西氏は、「柱」について次のようにも述べている。

「私が、重要な文、中心文、キーワード…などということばを使わずに、柱の文、柱のことば、というのは何故かというと、重要なというのでは、立場や、観点がかわると、それぞれ重要な文やことばがかわってくるからである。中心文というのも同じである。柱の文、柱のことばとは、重要な文、重要なことばのことではない。「重要な」というのなら、文章にとっては、どのことばも重要なのである。 (略) 私が柱というのは、文章にとって重要な文、ことばというのではない。文章を支える柱のような役目をしている文やことば(つまり文章の構造をつくっている文やことば)のことである。ちょうど柱なくして家は建っていないだろうが、柱ばかりの家は家ではない。」 (『説明的文章の読み方指導』)

 この引用部分から明確に分かるように、大西氏は内容主義を排して形式論理を追求するために、「柱」という言葉を使ったのである。
 「柱」が立場や観点の違いによって変わる可能性のあるものでないからこそ、それは、授業実践で使えるもの、つまり子どもにも分かりやすいものとなる。
 さらに、前節で述べたように、「柱」はまず構造よみで使うものである。したがって、難しいものでは困る。アラアラの流れをつかむ手掛かりとなるものでなければならない。
 しかし、「柱」は難しかった。今までの「読み研」の研究会でも、「柱」をめぐって議論が紛糾するのは度々のことであった。大人の、それも専門の国語の教師が何十人も集まっているのに、「柱」が揺れて決着がつかないのである。これでは子どもに分かるはずがない。
 何故そんなに難しかったのか。答えは明白である。形式論理から生まれた「柱」を内容主義の範疇でとらえ、立場や観点を異にする何十人もの人間が「柱」を検討していたからである。
 そして、その内容主義を主張する代表格が阿部氏である。

四、 なぜ内容主義に変質したのか

 形式論理から生まれた「柱」が、内容主義に変質したのはなぜか.阿部氏の『徹底批判』で考えてみよう。
 阿部氏の文章を読んで強く感じるのは、要約文偏重の姿勢である。極端な言い方をすれば「とにかく、要約文を作らねばならない」という姿勢が強く感じられるのである。
 私は、この要約文偏重の姿勢が内容主義への変質を招いたと考えている。
 確かに、大西氏に、要約文づくり重視の方向性があったことは事実である。それは、次のような箇所によく表れている。

「ところで段落の内容を分析し、要約することは、これもすでに述べたことであるが、たとえば「前文」なら前文を構造するいくつかの段落の中の『柱になる段落』と『柱以外の段落』を読みわけ、柱になる段落を要約として把握することである。そしてさらに、柱になる段落の内の、いくつかの文の内に、柱になる文と、柱以外の文とを読み分け、その段落の柱の文を要約として把握することでもある。そしてさらに、柱の文の内容を、重要なことばと、柱のことばのいくつかを読み分け把握し、それぞれを要点として、その文を再構成し要約していくことを意味している。」
  (『説明的文章の読み方指導』)・太字→五十嵐

 阿部氏およぴ「読み研」教師の多くは、この部分を読んで、要約文を作ることとはつまり、「柱」の段落の「柱」の文をつなげていくことだと誤解したのではないか。(少なくとも私の場合はそうだった)
 しかし、大西氏はそうは言っていないのだ。ここでは特に、大西氏の文章を注意深く読む必要がある。大西氏は、「柱になる段落を要約として把握する」と述べているだけなのである。これは、要約文づくりの際も「柱」が拠点となることを言っているにすぎないと私は思う。
  例えば、第二節の例文で言えば、「柱」である[1]を拠点として、そこに[2][3][4]をはめ込んでいくことで要約文をつくるはずである。この「柱」はいわば形式的な「柱」だから、そうせざるをえないのである。
 しかしもちろん、「柱」が内容的にも重要である場合は、「柱」をそのまま要約文に使っていけばいいのである。
 つまるところ、阿部氏の基本的な誤りは、形式的な「柱」の存在を理解しなかったことである。要約文を意識するあまり、内容的に重要なところ、つまり要約に使えそうなところを探そうとするのだから、それは当然の帰結であった。

五、記録文軽視の姿勢が「柱」設定にもたらすもの

 次に、阿部氏の記録文軽視の姿勢が「柱」設定にどのような影響を与えるか述べてみよう。
 「記録文をよむちからがなければ説明文も読めないか、あるいは読みにねじれが出てくる。」(大西忠治「説明的文章と読みの能力」)ということを、私は長い間理解できなかった。
 だから私は、阿部氏の「記録文不要論」を読んだとき、わりと素直に納得した。確かに中学校の教科音には記録文と思われる教材はほとんど無かったし、「実践的にも、『記録文』の読み方指導をしなくとも、十分に『説明文』『論説文』の指導が成り立つ」(『徹底批判』)と感じていたからである。
 しかし、それは大きな間違いであった。
 なぜなら、確かに純粋な記録文はほとんどないにしても、説明文や論説文の中に記録文は遍在しており、その部分を記録文として把握しておかないと、そこに無理に「柱」を設定しようとする誤りをおかすからである。
 そのことを『徹底批判』で検証してみよう。
 阿部氏の記録文軽視の姿勢が典型的に表れているのが、「魚の感覚」の本文U([7]〜[13])の分析である。ここは、明らかに時間の順に、魚の聴覚を追究した過程が記録された部分であるにもかかわらず、阿部氏は内容重視の姿勢で「柱」を設定しようとしている。

阿部氏は、[12]のC「これで、魚が音を聞き分けるということが、はっきりわかったわけです。」を「柱」の段落の「柱」の文にしているのである。しかし、これは追究の結果どうなったのかを記録しているところであって、時間の論理ではない「柱」の論理を持ち込むところではないのである.
 (この無理を正当化しようとして阿部氏が考え出した苦肉の策が、「補足」と「まとめられ」である。このことについては、「シンデレラの時計」を扱った別稿で述べる)
 では、本当の「柱」はどこか。それは[7]の@「それでは、音はどうでしょうか。」である。なぜならここが、これから述べることの「柱だて」をしているからである.
 しかし、本文Uの[8]〜[13]は時間の論理で書かれた部分であるから、もし[7]がなければ本文Uには「柱」がないことになるのであり、それはそれで別に不自然なことではないと考える。

六、「柱」の呪縛を越えて

 今まで、「読み研」教師の中には「柱」絶対視の傾向があったのではないか。つまり、説明文や論説文には必ず確かな「柱」があるという思い込みがあったと思うのである。そして、「読み研」の代表的な実践家である阿部氏もその例外ではない。
 しかし、現実には、「柱が弱い」「柱がねじれている」あるいは「柱がない」という場合もあると私は考えている。
 「魚の感覚」を使って、具体的に述べてみよう。
 「魚の感覚」の本文T([2]〜[6])の「柱」の段落の「柱」の文は、[2]の@「いったい、魚には、色がわかるのでしょうか。」であると私は思う。この文は本文Tの冒頭にあって、これから述べることの「柱だて」をしていると考えるからである。
 しかし、この「柱」には欠陥がある。「大小、形のちがいなども区別できること」について述べた[6]を包含していないのである。[6]は視覚を問題にはしているのだが、色の識別以外のことを述べている以上、[2]の@に包含されているとは言えないだろう。
 では、[2]の@を「柱」とすることは不適なのか。
   私はそうは思わない。これは要するに、この「柱」が持つ弱さ・不十分さと考えればよいのである。
 つまり、前文に「赤えぴの赤い色に目をひかれたのでしょうか。」とあるために、色だけを問題にした「柱だて」になってしまったのだが、もともと筆者は「視覚」を意識していたので、「大小、形のちがいなども区別できること」に筆が進み、結果として「柱」の弱さを生むことになったのである。
 「柱がない」場合とは、典型的には記録文的なところがそれに当たる。例えば、前述したように、「魚の感覚」の本文Uがそれに近い。ここは[7]の@が「柱」である。しかし、もしこの段落がなかったとしたら、当然本文Uには「柱」がないことになる。時間の順に記録されたところなのだから、基本的にはそれぞれの段落や文は十(プラス)の関係である。だから、ここに「柱」を設定しようとすること自体が不自然になってくるめである。
 「柱がねじれている」場合とは、「柱」の持つ方向づけに対して、その後の内容がくいちがっているようなことを指す。
 「柱」と「柱」以外の関係になってはいないが、「魚の感覚」の[1]と[2]以降の関係がそれに近いので、例としてあげてみる。

[1] 金魚ばちの中で、金魚が、無心に泳いでいます。そこへ、金魚のえさとして、赤えぴの一きれを投げてやると、水底にいた金魚まで、それを見つけて集まってきます。金魚は、赤えびの赤い色に目をひかれたのでしょうか。それとも、投げこんだときの、かすかな音を聞きつけたのでしょうか。それとも、えびのにおいをかぎ分けたのでしょうか。
[2] いったい、魚には、色がわかるのでしょうか。(中略)魚が実擦に物を見分け、色に感じることができるかどうかを調べるために、科学者たちは、次のような実験をしました。
[3] 青いさらと赤いさらを用意し、青いさらを見せたときは、それにえさをのせてあたえますが、赤いさらを見せたときは、ぽうか何かで、魚をいじめるのです。

 阿部氏も指摘しているように、[1]は問題提示の前文であるといっていい。だから、厳密に考えれば、[2]は当然、金魚の視覚について論を展開すべきである。
 しかし、[2]では魚一般に問題が広がっている。[3]でも、科学者たちの実験ではどんな種類の魚を使ったのか書かれてはいない。少なくとも、金魚ではないようだ。つまり、金魚のことが問題として提示されていたのに、いつのまにか魚一般に問題がすり変わっているのである。
 筆者は最初から魚の視覚を問題にするために、最も身近な魚である金魚をとりあげて読者の興味を引こうとしたのだろうが、以上述べたように、厳密に考えると[1]と[2]以降では問題がずれているといえる。
 このように、「柱だて」した問題がずれている場合をさしで、「柱がねじれている」と言ってよいと私は考える。
 (もっとも、[1]の書かれ方は、はっきりした問題提示というより、多分に導入的であるといっていい。事実、[1]の前文としての性格を論議すると、導入・前置きであると主張する生徒が出てくる。したがって、上の例はやや不適切であったかもしれない)
 「完全な文章などない」とは、大西氏がよく言っていたことである。とすれば、「柱」とてその例外ではない。欠陥のある「柱」が存在しても何ら不思議はないのである。
 このような「柱」の欠陥は、当然、構造よみや要約よみのなかで問題にならざるをえない。そして、そのことを指摘していくのが文章吟味の重要なポイントであると思うのだが、「徹底批判」のP76〜77の『「吟味よみ』の方法」を見るかぎり、阿部氏の吟味よみにはそういった視点が弱いと思われる。このことは、阿部氏が吟味よみの過程を独立させて最後に位置づけようとすることと無縁ではない。構造よみや要約よみの中で当然問題となる「柱」吟味の視点がないから、吟味よみを独立させてもいっこうに困らないのである。

七、おわりに

 「授業の実践の事実で検討を重ねるしかない」−阿部氏はよくそう言う。
 そうであるなら、私は確信をもって今はこう言える。「内容主義では生徒は分からない。形式主義だからこそ生徒は理解できる」と。
 十数年なやみつづけた「柱」と「柱」以外の関係について、自分自身が内容主義から形式主義に視点を変えた途端、目の前の霧がサーッと晴れるように感じた。そして何より、その立場で授業をしてみると生徒の理解の度合いが全然違うのである。
 依然として分からないことも多いが、授業実践の事実が、以上述べてきた方向の正しさを示していると感じられてならない。