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07010103   科学的「読み」の授業研究会編『研究紀要W』(2002年8月1日 発行)より

はじめに                                                                           TOPへ戻る

  以下の原稿は、科学的「読み」の授業研究会編『研究紀要W』の長畑龍介氏の許可をいただき、私のホームページに掲載させていただいています。長畑さんに感謝です。
  記録文の読み方指導については、読み研の研究会でそれほど取り上げられないと思いますので、大変貴重な学習資料としてぜひご活用ください。


記録文の構造、要約、要旨よみ   =小田氏と阿部氏の主張に関わって=  

                                                                長畑龍介(岡山県美作町みまさか塾)

  「読み研通信」(六十三〜六十四号)の紙上で行った小田迪夫氏(大阪教育大)との討論と、その後の手紙による意見交換(「通信」では打ち切りとなってしまったため)は、私にとって、記録文の読み方指導を追究していく上で、多くの示唆を与えてくれるものであった。

一、文章の性格にそった読み

  氏は、対象とした教材文(「通信」参照)を「叙事的説明文」ととらえ、このような文章には「柱」に当たる段落・文・語句が見出せない。したがって、「要約のオーソドックスな方法は、五W一Hの述べ方を基準にして、叙述に軽重を見出し、枝葉となる部分を取り除いて幹と大枝だけのような文にまとめていくやり方である。」と主張。
  氏の「叙事的説明文」とは、読み研でいう「記録文」の一種であるが、このように、時間的順序で書かれた文章の性格を把握して、それに応じた要約のし方を提起した文章に接したのは、読み研以外では初めてであった。
  私は賛意を表するとともに、時間的順序で書かれた文は、「記録文」と呼んで指導することにしてはどうか、と提案をした。しかし、氏は、「記録文」の一般的な基本概念は、
「記録を残す目的で書かれた文章」(備忘録、生活記録、学習・研究記録、行事・会議録など)であるから、「大西忠治氏の『時間的順序で書かれている文章』(対象の取り上げ方とその述べ方の観点からの定義)であっても、記録目的で書かれていない文は、「『記録的記述文』と 呼ぶようにしたらどうだろうか。」と逆提案された。
 そこで、まず読み研でいう「説明的文章の三つのタイプ」を簡単に整理しておこう。

  A 記録文・・・対象を時間的・空間的順序で記述している文章
  B 説明文・・・時間や空間以外の順序で、定説となっていることを説明している文章
  C 論説文・・・筆者の仮説を論証している文章

 このように分けるのは、それぞれに応じた文章の読みとり方があるからである。すなわち、

      記録文は、「いつ」を基準にして構造を読みとり、5W1Hで要約する。「事実」の吟味が重要。
      説明文は、段落関係で構造を読みとり、柱の段落・文で要約し、要旨をまとめる。その過程で「事実」と論理を吟味する。
      論説文は、段落関係で構造を読みとり、柱の段落・文で要約し、要旨をまとめる。前提と結論の関係を吟味し、仮説を検証する。

となる。
   つまり、文章の書かれ方と読みとり方の違いによる分け方であり、呼び方なのであるが、同時に、それは、文章の本質的な違いでもある。
   確かに、「概念のはっきりした言葉を使う能力を育てることが国語教育の重要な目的」の一つであろう。だから、大西氏も初めは「記録的タイプの文」という慎重な呼び方をしていたのだと思う。しかし、例えば、「結論」という用語が、「序論・本論・結論」という場合と「前提・結論」として使用される場合とでは、概念がやや違っても使い分けされているように、「記録文」も使い分けできると考え、新しい意味づけをしたのではなかろうか。
 ただ、小田氏が指摘した「書き手の意図や目的に照らして」文章を区別する見方は重要だと思う。私は、かつて、表層のよみの後で、生徒と共に文種を定める際に、説明的文章においては、教科書の「筆者の紹介」などを参考にして、筆者の専門や境遇、文章の目的などを確かめる「筆者よみ」が必要と主張したことがある。「事実」や論理の吟味が、読者の主観的なよみになってしまわないためにも、このような文章の性格を、深層のよみの前におさえておくことが必要ではないだろうか。

二、記録文と「柱」の段落・文

 小田氏も、前述したように、記録文(叙事的説明文)には「柱」にあたる段落や文はないから、説明文や論説文とは違った要約のしかたがあると提起された。そのことを、次の教材「魚の感覚」(末広泰雄)で検討してみたい。

7それでは、音はどうでしょうか。  
8二十世紀の初め、ドイツのある養魚場でおこったできごとです。その養魚場には、ますがかわれていて、一人の番人がいました。番人は、近くの教会で鳴らす朝八時のかねを聞くと、すぐに、ますにえさをやることにしていました。
9ところが、ある朝、番人は、朝ねぼうしてしまい、八時のかねが鳴り終わってしばらくたってから、えさを持って、池のふちに行きました。するとどうでしょう。いつもなら、番人が池のふちに立ってから、ますが集まってくるのに、その日はもう、水面にたくさんのますが顔を出して、えさをさいそくするようなようすをしているのでした。しかも、このふしぎな現象は、その日ばかりでなく、その後、教会のかねよりもおくれてえさをやるたびにおこるのでした。「うん、そうだ。ますには、かねが聞こえるんだな。教会のかねが鳴れば、えさをもらえることがわかっているんだな。」
番人は、このおもしろい事実に、気がつきました。
10そのころ、ドイツに、ラドクリッフという生物学者がいました。その人は,友だちといっしょに、「魚は、音が聞こえるだろうか。」という研究をしていました。ますのたくさんいる川で、てっぽうをうって、その音で、ますがおどろくかどうかという実験をしたのですが、その結果、「ますは、音が聞こえない。」という説を発表しました。
11そのラドクリッフ博士が、養魚場のできごとを伝え聞いて、たずねてきました。博士は、初めのうちは、「ますが集まってくるのは、かねの音のためではあるまい。水にうつる番人のかげを見て集まるのであろう。」と言っていました。それで、明くる日の八時前、養魚場にやってきて、番小屋の中から、池のようすを見張っていました。
12やがて、教会のかねが鳴りだしました。すると、えさ場付近が、にわかにさわがしくなって、ますが、集まってきました。口を水面に出して、たがいに他をおしのけるようにして寄り集まったため、まるで、夕立がかわいた木の葉をたたくような、やかましい水音がしています。これで、魚が音を聞き分けるということが、はっきりわかったわけです。ラドクリッフ博士も、これを見て、自分の考えを変えないわけにはいきませんでした。
13この後、ドイツのフリッシュ博士は、えさを使って魚を訓練しながら、研究しました。そして、博士は、なまずの一種であるアミウルスという魚は、音を聞く能力が非常にすぐれていて、高い音では人間に少しおよばないが,低い音を聞き分けることでは、人間以上にするどい感覚をもっていることを発見しました。

  この教材は、説明文「魚の感覚」(学図・小五)の本文二にあたる部分(段落番号は長畑)で、段落までです。一見して直ぐわかるように、全体の構造は、7段落が柱の段落で、8段落以降は、7段落の問題を、研究初期のエピソードも交えながら解明したものです。
 この8〜13段落が記録文(小田氏の「記録的記述文」)で書かれているのです。ですから、柱の段落はありません。
この部分の構造よみはつぎのようにします。

三 記録文の構造よみ

(1) 各段落の「いつ」を示すことばに線を引かせる。

     8 二十世紀の初め
     9 ある朝、その後
     10 そのころ
     11 明くる日の八時前
     12 やがて
     13 この後

 子どもたちは、記録文では、段落の初めに「いつ」を示す言葉があることに気づきます。ところが、11段落では後の方です。その上、「明くる日」が、博士がたずねてきた日の翌日であることはわかっても、前の話からの時間的経過 は表わしていません。そこで、それが予想できる表現を見つけさせると、「伝え聞いて」だと答えます。それも、「いつ」(時)を示す言葉であることを教えます。
 
(2) 段落分けをする

 「いつ」を基準に、「どこで、だれが」などを手がかりに段落を分けたりまとめたりする。

     8・9・・・・・・二十世紀のはじめ、ドイツのある養魚場、番人
     10・・・・・・・・・・そのころ、ドイツ、ラドクリッフという生物学者、
   11・12・・・・・・・伝え聞いて、養魚場、ラドクリッフ博士
   13・・・・・・・・・・・この後、ドイツ、フリッシュ博士
 
(3)最重点部分

 普通、記録文には、「もっとも記録すべきことがある部分」(大西)がある。それは、時間の経過が遅く、最も細かく描写(いわゆる「みたまま記録」)されている段落である。それは12段落である。ほんのわずかの間のできごとであろう。
 こう読んでくると、描写のある記録文は、一つのエピソードとして、物語の構造も持っていることがわかる。

 〇冒頭 「二十世紀の初め、・・・」
   〇発端 「ところが、ある朝・・・」
 〇山場のはじまり 「それで、明くる日の八時前・・・」
 ◎クライマックス 「口を水面に出して、・・・やかましい水音がしています。」
 〇結末 「・・・自分の考えを変えないわけにはいきませんでした。」
 〇終わり「・・・発見しました。」

四 阿部氏の分析と授業

 時間的順序で書かれたこの記録文を、説明文のように扱ったらどうなるか。その例を「研究紀要U」(一一四ページ)の阿部昇氏の分析と授業化にみることができる。
 「本文2の柱の段落から見つけていこう。・・・」と、教師は指示する。子どもから,12段落と13段落の二つの意見が出て、グループ討論となる。なかなかおもしろい討論なので、要点を紹介してみよう。12 13は、それぞれその段落を指示する意見。

12「12には『結局』とあって、その後に、『魚が音を聞き分ける』と書いてある。」(○注「結局」はない。生徒の読み間違い。)
13「13にも、『音を聞く能力がすぐれていて』とあり,12でまとめたことを,13で整理し直してまとめている。」
12「12の方は『はっきりわかった』と書いてある。」
13「13にも、『発見しました』とあり、こっちの方が強い。」
13「13には、『この後』とか、『研究し』とあるので、12の一回だけのより本格的な研究」
12「13は、『なまずの一種のアミウルス』のことだから、12の方が柱。
13「どっちも魚ということでは同じことだから関係ない」
12「同じではない。筆者が書こうとしているのは、魚全体のことだから12の方がよい。」

 結局,子どもの討論では決着がつかず、最後に,教師はこう説明する。「12のC文は魚全体、それに対して13のA文はアミウルス。だとすると、この文章は魚全体のことを問題にしている文章だから、12が柱の段落だね。」
 これで子どもは納得したのだろうか。この文章は、百年も前のラドクリッフ博士が,「自分の考えを変えないわけには」いかなくなった状況を、筆者が博士の立場に立って、臨場感を出しながら再現した文章である。8段落から12段落まで対象となっている魚は、一貫して「ます」である。「これで、魚が音を聞き分けるということが、はっきりわかったわけです。」という一文は、筆者自身の結論でも主張でもなく、その場の解説的な文に過ぎない。(やや誤解を招く表現ではありますが。)
 ですから、子どもの12も13も、(筆者の頭の中では)「魚ということでは同じ」という発言こそ正当なよみというべきだろう。
 おもしろいことに、この問題が、この後の「吟味よみの授業」で、再燃してくるのある。
 「12段落には、『魚が音を聞き分ける』と言ってるけど、この文章で出てきているのは『ます』だけです。」
 「ます一種類だけで『魚が音を聞き分ける』って言うのは変だと思います。」
と子どもが指摘する。すると教師は、柱の段落ぎめの時とは逆に、今度はそれを認めて、生徒に書き直し(リライト)を指導する。実に妙な展開である。
 リライトの方も、もし子どもが、一番簡単で明瞭な、

 これで、ますが音を聞き分けるということが、はっきりわかったわけです。

と書き直したらどうなるだろう。柱の段落の根拠とした唯一の言葉がなくなってしまう。そこで教師は、子どもに、「色」について書かれた文に注目させ、「いろいろな魚でも実験して・・・」と、書き直させようとするが、それをどこにどう入れていくのか、おそらく、子どもは、文がつながらなくて困惑してしまうだろう。
 しかも、氏によれば、この一文は、後の教科書では削除されているというのだ。「この変更については、次の機会に詳しく検討したい」とあるが、いったい柱の文はどうするのだろうか。
どうして、このような矛盾に陥るのか。原因は複合的、構造的である。

 1 記録文の認識がない。
 2 記録文に「柱」を使用している。
 3 問いに対する答を「柱」としている。    
   4 要約よみの中での「事実」の吟味がない。
 5 要約よみを「論理よみ」にしたために、文章を要約することの意義が見失われている。
 6 構造、要約、要旨よみの過程から、「吟味よみ」が切り離されている。
 7 リライトが、主観的な書き直しになっている。

五 記録文の要約よみ

 記録文は、小田氏が提案しているように、5W1Hを基準に要約する。要約文の例を挙げる。

T

8・9段落

二十世紀の初め、ドイツのある養魚場で、番人が、ますには音が聞こえるという事実に気がついた。

U

10段落

そのころ、ドイツのラドクリッフという生物学者は、実験の結果、「ますは、音が聞こえない」という説を発表した。

V

11・12段落

話を伝え聞いて,養魚場をたずねてきた博士は、実際にますが教会のかねで集まってきたようすを見て、自分の考えを変えた。

W

13段落

この後、ドイツのフリッシュ博士は、ある種の魚は、音を聞く能力が非常にすぐれていることを発見した。

   要約文の指導のポイントは、「何をした」の述語である。例えば、10段落には、博士が「いました」、「研究をしていました」、「てっぽうをうって」、「実験をした」、「説を発表しました」などがある。これらを子どもたちに挙げさせてから、取捨選択したり、まとめたり、簡明な言葉に言い換えたりさせるのである。この訓練が、後に要旨を自分の言葉や考えでまとめる力となるのである。
    
六 「事実」よみとは

 記録文の要約よみで重要なのは、書かれている「事実」を吟味することである。この文章から、子どもが指摘するであろう、また指摘させたい「事実」の例を挙げてみる。

 @ 百年も前にドイツの田舎であったことが、なぜ現在まで伝わっているのか。本当にあったことか。
 A 他の二人の名前は出ているのに、番人の名前がないのはなぜか。
 B 番人は、「気がつきました」で、博士は「発見しました」というのはなぜか。
   C ラドクリッフは、なぜ、友だちといっしょに研究したのか。
   D なぜ、てっぽうをうって実験したのか。
 E 発表までした自分の考えを変えたのはなぜか。
 F てっぽうでの実験は、どう考え直したのか。
   G フリッシュ博士は、なぜ「えさを使って魚を訓練しながら研究」したのか。
   H 三人ともドイツなのはなぜか。
   I すべての魚に音を聞く能力があるのか。

   別の教材ではあったが、「読み研通信」紙上の討論でその事例を挙げたところ、小田氏から、「『要約よみ』が教材に述べられた事柄をまとめて『叙述的要約文』を作るための読みを意味するなら、長畑氏が事例として示されたような『事実』の詮索は、要約には直接必要ではない。」「要約の方法学習とは別の、事実の探求学習」という批判を受けた。
 確かに、書かれてあるとおり、何の吟味も批判もせず要約することはできるし、技術も教えられる。しかし、それこそ、国語の時間をおもしろくないものにしてきたと批判されている「要約主義」というものではないだろうか。
   では、要約よみの中での「事実よみ」を、11・12段落で実際に示してみよう。
 例示した要約文のように、「自分の考えを変えないわけにはいきませんでした。」の二重否定の文は、肯定の文に替えることを指導した後、

教 「どうして、こんなまわりくどい言い方をしたのですか?」
生 「変えたくなかったから。」「仕方なく変えたという気持ちが出ている。」
教 「どうして変えたくなかったの?」
生 「自分は博士だから。」「学者だから。」「『ますは、音が聞こえない』という説を発表しているから。」
教 「そうだね。博士としての権威がなくなってしまうね。 それでも変えたのはなぜ?」
生 「ますが集まるのは番人のかげのためではなく、かねの音を聞いたからだとわかったから。」「目の前で、はっきりと見てしまったから。」
教 「さすが学者だ。事実の前では謙虚なんだね。それじゃあ、ここで疑問に思うことはない?」
生 「てっぽうの音はどうして聞こえなかったのか。」「博士は、自分の実験をどう思っているのか。」
教 「そう、そこが重要だね。でも、それはここには?」
生 「書いてない」
教 「では、みんなは、どう考える?」
生 (予想される発言)
  ・ますには、かねの音は聞こえても、てっぽうの音は聞こえない。
  ・養魚場のますには音が聞こえるが、川のますには聞こえない。
  ・川では,他の音にまぎれて聞き取りにくかった。
  ・聞こえたけど、驚いたようすはあらわさなかった。
  ・博士は、よく観察しないで発表してしまった。

 これらの問題を討論する中で、番人とラドクリッフ博士の性格や行動が対照的に描かれていることがわかります。
   番人は、一人で、養魚場で、自らの糧のために、毎日、教会のかねが鳴る時間に、ますにえさをやるという仕事を律儀に続けます。その日常の生活の中で、ふしぎな現象を見、何回も確認した後で、「ますには、かねが聞こえるんだな。」と気がつき、、おもしろい事実として、人に話すのです。
 それに対して、博士は、友だちといっしょに、川で、研究のために、てっぽうでますをおどろかす実験をし、その結果を見て、直ぐに、「ますは、音が聞こえない」という説を、自分の学問的成果として発表します。
 その有名な博士が、名もない番人の科学の目に脱帽するのです。おそらく博士は、自分の実験の安易さを思い知らされ、魚の能力を知るには、時間と忍耐と科学的な方法が必要なことを改めて学んだでしょう。そのことが、後のフリッシュ博士の「えさを使って魚を訓練しながら、研究」につながるのです。           
 書き足りないため、疑問の残る文ではあるが、筆者の「科学の進歩というものは、学者や博士だけの功績ではなく、毎日の暮らしの中での、庶民の科学の目が大きな力になっているのです。」というメッセージを、文章のウラから読みとらせることができるのです。

七 「吟味よみ」とは

 では、阿部氏の「吟味よみ」ではどうなるでしょう。教師は、二つ目の吟味として、「この観察・実験だと『魚が音を聞き分ける』とは必ずしも言い切れない、どうしてかな?」と提言します。そして、ヒントを与えて動物の体内時計について,子どもに調べさせるのです。その結果、ますは、「生命時計・体内時計」で集まってきた可能性があり、それを否定するには、「かねを教会の人に頼んで違う時間に鳴らしてもらえばよい」とこどもが答えます。この活動を阿部氏は、「国語科と理科との総合学習」とも評しています。 
   しかし、この文章のよみとしては、違和感を感じないでしょうか。たとえ「体内時計」のことなど知らなかった当時の学者でも、時間を変えて確かめたり、鉄砲の音に反応しない理由を考えたり、他の魚で実験したりは当然するでしょう。この「音の感覚」の部分は、科学的な説明の文章ではなく、学者の狭い視野での思い込みが、目の前の現象で強い衝撃を受けたという事実を描いて、子どもにおもしろく理解させようとした性格の文章なのです。その「おもしろさ」を読ませることこそよみの主眼ではないでしょうか。一で述べた「筆者よみ」(文章の性格を予めおさえておくこと)の必要性とは、このことなのです。
 さらに重大なのは、「魚には音がわかる」という一般的な定説となっている生物学の到達点にさえ、、子どもが疑問を持ったり、否定してしまうおそれを感じることです。説明文では、それは困ることではないでしょうか。 
 三つ目の「吟味よみ」として、阿部氏は、12段落の「聞き分ける」という語句を問題にし、「聞こえる」に統一すべきだという。しかし、ここでは、「やかましい水音」の中でも、鳴っているかねの音を「聞き分け」ていると、博士が感じとったのであって、用語がまちがっているわけではないのです。要約よみの中で吟味をしていたら、こんなよみ間違いは起こらなかったでしょう。
 結局のところ、記録文を記録文として認めることをしなかったところから、全ては始まっていると言えるでしょう。
   大西氏が、「説明的文章のよみ方指導」で、「記録文をよむちからがなければ説明文もよめないか、あるいはよみにねじれが出てくる」と指摘した意味が、今ますます重要になってきているのではないでしょうか。

八 要旨よみ

 小田氏から、「長畑氏の意図される『要約読み』が『要旨読み』とどのような関係や位置付けになるのかが私にはもう一つはっきりしない」という批判があったので、最後に、「要旨よみ」について、触れておきたい。
 大西氏の言を借りて言えば、「文章の中心的な課題というか、もっとも強調されている内容というか、主題とでもいうような、全体を統括するようなもの」が、「要旨・論旨」で、それを理解した上で、その点から読みなおしてみる(筆者の主張、文章の内容に対する批判や、反撥、あるいは共感をもつ)ということが、「要旨よみ」であり、「要旨把握」の段階である。(「説明的文章の読み方指導」より)
 例えば、「魚の感覚」の7から13段落の要旨は、四つの要約文(五のTUVW)を単にまとめるだけではできあがらない。ここには、全体を統括するものが直接表現されてないからである。それをとらえさせることがまず重要である。要旨は、「二十世紀の初め、ドイツのある養魚場の番人の発見が手がかりになって、学者たちの研究によって、魚には音が聞こえることがわかった。」となろう。
 子どもに要旨をまとめさせる過程で、また、まとめた後で、疑問や批判や感想を発表させると、「学者が番人に負けた話がおもしろい。」「物語で説明しているからわかりやすいけど、疑問も出てくる。」「魚は、体のどこで音を感じるのだろう。」「何のためにこんな研究をしたのだろう。」「日本や他の国の研究はどうなのか。」などなど出てくるであろう。問題によっては討論し、問題によっては、各自の課題や調べ学習に発展させる。
 この「要旨よみ」の理論と実践は、読み研において、今後の大きな課題となるであろう。
  本年度から使用の新しい小・中の国語教科書には、かなりの記録文教材が採用されている。次は、私が調べた限りの教材名です。参考にして、実践を進めていただければ幸いです。

小学校の記録文教材

日本書籍 わたしたちの小学国語
 *一年上 「あり」の全文
 *三年上 「ミミズ」本文の一部
 *四年上 「ホタル」の一部
 *五年上 「オオバカマダラのなぞを追って」の本文

学校図書 みんなとまなぶ小学校国語    
 *一年下 「まめ」の全文
 *二年上 「ホタルの一生」の全文

大阪書籍 小学国語
   *二年上 「すなはまに上がったアカウミガメ」(中東覚)
    の全文
   *二年下 「どんぐりとどうぶつたち」(こうやすすむ)の全文
   *四年下 「ひがたは生きている」(国松俊英)の全文
   *五年上 「森を育てる漁師の話」(野坂勇作)の全文

教育出版 「ひろがる言葉」
   *二年上 「すみれとあり」(やざまよしこ)の本文
 *三年上 「いるかのひみつ」(倉橋和彦)の全文
 *五年下 「森を育てる炭作り」の本文の一部

光村図書 国語
 *三年上 「ありの行列」(大滝哲也)の本文
 *三年下 「虫のゆりかご」(岡島秀治文、吉谷昭憲絵)の全文 
 *四年上 「ツバメがすむ町」(川道美枝子)の本文
 *四年下 「手話との出会い」(米川明彦)の全文
 *六年上 「砂漠に挑む」(遠山柾雄)の本文の一部

東京書籍 新しい国語 
   *二年上 「たんぽぽ」(ひらやまかずこ)の本文の一部
   *二年下 「ビーバーの大仕事」(なかがわしろう)の全文
   *三年下 「つな引きのお祭り」(北村皆雄)の本文
   *四年上 「ヤドカリとイソギンチャク」の本文の一部
   *四年下 「ウミガメのはまを守る」(清水達也)の全文
   *六年上 「宇宙からツルを追う」(樋口広芳)の本文

※どの教科書にも,作文教材としての,児童の「生活記録文」がありますので、記録文のよみ、書きの指導に利用できます。

中学校の記録文教材

東京書籍 新しい国語
 *一年 「碑(いしぶみ)」の全文

学校図書 中学校国語
 *一年 「片言を言うまで」(金田一京助)の全文
 *三年 「目撃者の眼」(ジョー=オダネル,文・上田勢子)の全文

三省堂 現代の国語
 *二年 「ホタルの里づくり」(大場信義)の本文
 *三年 「平和を築くーカンボジア難民の取材から」(荒巻裕)の本文

教育出版 中学国語伝え合う言葉
 *一年 「里山を歩く」(ケビン=ショート)の本文
 *三年 「森は海の恋人」(畠山重篤)の全文

光村図書 国語           
 *一年 「海の中の声」(水口博也)の本文
 *一年 「スーパービート板」(乙武洋匡)の全文
 *二年 「マドウーの地で」(貫戸朋子)の全文
 *二年 「物語が走る」(奥脇抄)の全文
 *三年 「アラスカとの出会い」(星野道夫)の全文
 *三年 「温かいスープ」(今道友信)の本文