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0105 その他「読む」関連資料
010501 奥の細道を原文で読もう授業プラン
はじめに
中学3年生の古典「おくのほそ道」の原文の音読と大意把握を中心課題にした授業プランです。光村の教科書では「序」「平泉」の部分がとられています。この部分は、中学3年生が読むには難しい漢語が多いけれども、芭蕉が練りに練った名文ということで教材としての価値が高く、授業時数も5時間程度をあてるのが普通の扱いではないでしょうか。私自身も「序」を暗唱させたり、「序」の対句表現などをとらえさせたりする授業をしてみましたが、この「序」「平泉」の部分を丁寧に授業をしても芭蕉の「おくのほそ道」の魅力を生徒に伝えることは困難でした。
そんなときに『奥の細道を読もう』(出版社:さ・え・ら書房
編著者:藤井圀彦 定価:1550円
発行年月:1993年10月 )に出会いました。小学生高学年から「奥の細道」を現代文で読めるように書かれており、原文も掲載されていて、解説も非常にわかりやすい本でした。恥ずかしい話なのですが、私自身この本ではじめて「奥の細道」の全体を読みとおすことができました。そして、教科書にとられていない部分(原文)に意外にわかりやすく、芭蕉の旅の様子を感じ取れるところが多いことを発見しました。そこで、藤井さんの本の中から生徒の興味をひきそうな部分をビックアップして、原文の音読をしながら、大意把握のための問題にチャレンジさせながら、できるだけたくさん読ませてみようと授業に組み込んでみました。大意把握のための問題は、はじめの頃は原文の一部の口語訳を見つけさせる形でやっていましたが、平成16年度には原文にもっと目を向けさせたいと思い、簡単な問題を提示してその答えを原文から抜き出す形に変更してみました。どんな問題を出したのか、このページにまとめてみましたので、お読みいただき、ご意見をいただければと思います。
『奥の細道を読もう』の本をお持ちでしたらその本を利用して教材を作るのが一番よいと思いますが、ここでは下記の伊藤洋さんのホームページより、原文と語注を転載させていただき、テキストにしてみました。
原文と語注の出典
原文と語注は、下記のサイトから転載、編集させていただいております。 伊藤 洋さんの 「芭蕉DB」の中の http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/basho.htm 「 おくのほそ道」から http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/okunohosomichi/okuindex.htm |
教材化した部分と大意把握のためのQ
序 の 大意把握のためのQ
Q1: | 芭蕉は、おくのほそ道に出かけたらぜひとも行ってみたいところを二ヵ所挙げています。その場所を原文から抜き出しなさい。 |
Q2: | 芭蕉が旅行に出かける前にどんな準備をしたのか、四つ挙げなさい。 |
原文 | 語注 |
月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯を浮べ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊のおもひやまず、海浜にさすらへて、去年の秋江上の破屋に、蜘蛛の古巣をはらひて、やや年も暮、春立る霞の空に、白川の関こえんと、そヾろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取もの手につかず、もゝ引の破をつヾり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかゝりて、住る方は人に譲り、杉風が別墅に移るに、 草の戸も住み替る代ぞ雛の家 面八句を庵の柱に掛置。 |
月日は百代の過客:<つきひははくたいのかかく>と読む。李白の詩に「夫れ天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客なり。」とあるに依る。 舟の上に生涯を浮べ:船頭として一生涯舟の上で過ごす人。 馬の口とらへて老を迎ふる物:馬子として生涯を終わる人。 古人:ここで古人とは、単に昔の人ではなく芭蕉が尊敬してやまない西行や宗祇,能因法師などをさす。 海浜にさすらへて:<かいひんに・・>と読む。前年の『笈の小文』の旅のこと。 江上破屋:<こうしょうのはおく>と読む。江上は江戸のこと。破屋は深川の芭蕉庵のこと。 そゞろ神:<そぞろがみ>。旅に出るように誘惑する神様。芭蕉固有の呼称で、当時こういう神が社会的に広く認知されていたというわけではない。 三里:<さんり>と読む。灸のツボ。膝の関節の下のくぼんだ何処にあり、ここに灸をすえると健脚になるという。 松島の月先心にかかりて:芭蕉は古くから松島の月にあこがれていた。江戸の月は、松島のつきの種を貰ってきて蒔いて育った実生のようなものに過ぎないと詠んだ句「武蔵野の月の若生えや松島種」がある。 杉風が別墅:<さんぷうがべっしょ>と読む。杉風は杉屋市兵衛、芭蕉の最も信頼していた弟子の一人。別墅は、深川六間堀にあった杉風の別宅採茶庵<さいだあん>のこと。 面(表)八句:<おもてはちく>と読む。百韻形式の連句の最初の8句のこと。これらを第1ページ目に書くところから表八句という。ただし、この表八句は現存していない。 |
出発 の 大意把握のためのQ
Q1: | 芭蕉が、出発したのは何月何日。 | |
Q2: | 江戸から見える、山の名前は。 | |
Q3: | 芭蕉は、見送りの人達と舟でどこまで一緒に移動したか。(舟を降りたのはどこか) |
原文 | 語注 |
彌生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれる物から、不二の峰幽かに見えて、上野・谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗て送る。千じゆと云所にて舟をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ。 行く春や鳥啼魚の目は泪 是を矢立の初として、行道なをすゝまず。人々は途中に立ちならびて、後ろかげのみゆる迄はと、見送なるべし。 |
彌生も末の七日:元禄2年3月27日のこと。陽暦では5月16日にあたる。 明ぼのゝ空朧々として、月は在明にて光おさまれるものから:<あけぼののそらろうろうとして、つきはありあけにてひかりをさまれるものから>と読む。有明の空は、すでに明るんで、月そのものの光は色褪せている。『源氏物語』「月は有明にて光をさまれるものから、影さやかに見えて、なかなかをかしきあけぼのなり」から引用。 又いつかは:西行の歌「畏まる四手に涙のかかるかなまたいつかはと思ふ心に」(『山家集』)からとった。 むつましきかぎり:日頃親しい人たち。 舟に乗て送る:深川にて乗船。この当時の風習では、長旅に出る人の送別は、一駅先の宿駅まで同行すること、また、別れるときには後ろ姿が見えなくなるまで見送ること、その際送られるものは後ろを振り返ってはいけないとされた。 千じゆ:東京都足立区千住。奥州街道(1597年)・日光街道(1625年)第一の宿場。ここまで芭蕉庵から約10kmある。千住に着いたのは、『曾良旅日記』によれば、「巳の下尅」というから午前11時ごろということになる。ただし、ここには曾良は不在だったはずだという説もあるので信じ難いのである。 是を矢立の初として:<これをやだてのはじめとして>。この句を旅立ちの記念として、の意。矢立は携帯用の筆記用具。筆や墨を一組として収めたもの。ここでは、「俳諧創造の旅」の象徴として込めている。 |
草加 の 大意把握のためのQ
Q1: | 芭蕉が、おくのほそ道の旅に出かけたのは、何年? | |
Q2: | 芭蕉が、旅に持っていったものを六つ挙げなさい。 |
原文 | 語注 |
ことし元禄二とせにや、奥羽長途の行脚、只かりそめに思ひたちて、呉天に白髪の恨を重ぬといへども、耳にふれていまだめに見ぬさかひ、若生て帰らばと定なき頼の末をかけ、其日漸草加と云宿にたどり着にけり。痩骨の肩にかゝれる物先くるしむ。只身すがらにと出立侍を、帋子一衣は夜の防ぎ、ゆかた・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがに打捨がたくて、路次の煩となれるこそわりなけれ。 | ことし元禄二とせにや:西暦1689年。この年、春から天候不順であった。芭蕉の計画を無謀と考えた杉風ら江戸の弟子たちから引き止められて、この旅は出発が遅れたのである。 奥羽長途の行脚:<おううちょうどのあんぎゃ>と読む。東北地方への長旅。 呉天に白髪の恨を重ぬ:<ごてんにはくはつのうらみをかさぬ>と読む。「五(呉)天に至らん日まさに頭白かるべし」(三体唐詩)などから引用。白髪の老人となろうとも、の意。呉天は呉の国の空の意で、転じて 遠い異郷の地を意味する。 耳にふれていまだめに見ぬさかひ:話には聞いているが未だこの目で見たことのない場所。 若生て帰らばと定なき頼の末をかけ:<もしいきてかえらばとさだめなきたのみのすえをかけ>と読む。この旅で死んでしまうのではないかと思っているというのだが,これはもちろん文学的装飾である。 其日漸草加と云宿に:<そのひようようそうかというしゅくに>。草加は埼玉県草加市。日光街道で江戸から2番目の宿駅。ただし、この夜芭蕉一行は草加に宿泊したのではなく春日部に一泊している。 痩骨の肩:<そうこつのかた>と読む。やせた肩のこと。 帋子一衣は夜の防ぎ:<かみこいちえはよるのふせぎ>と読む。渋紙で作った防寒具。身一つの軽装でと思っても、こればかりは当時の旅の必携夜具であった。庶民が利用する旅宿では、明治中期に至るまで夜具の用意はなかったので、旅人自身が携行しなければならなかった。 さりがたき餞:辞退しにくい<はなむけ>の意。 路次の煩となれるこそわりなけれ:<ろじのわずらい>と読む。荷物の多いのは、旅の障害となるのだが、これは仕方の無いことだ。 |
日光 その一 の 大意把握のためのQ
Q1: | 日光山の麓に泊まったのは何日? | |
Q2: | 日光山の麓で泊まった宿のご主人の名前は? |
原文 | 語注 |
丗日、日光山の麓に泊る。あるじの云けるやう、「我名を佛五左衛門と云。萬正直を旨とする故に、人かくは申侍まゝ、一夜の草の枕も打解て休み給へ」と云。いかなる佛の濁世塵土に示現して*、かゝる桑門の乞食順礼ごときの人をたすけ給うふにやと、あるじのなす事に心をとどめてみるに、唯無智無分別にして正直偏固の者也。剛毅木訥の仁に近きたぐひ、気稟の清質、尤尊ぶべし。 | 丗日:<みそか>と読む。元禄2年3月30日のことだが、芭蕉はここで1日計算を間違えた。実際は4月1日である。この年、3月は閏月にあたっていて30日は存しなかった。 濁世塵土に示現して:<じょくせじんどにじげんして>と読む。どのような仏様が、汚れたこの世に出現したというのであろうか、の意。 桑門の乞食順(巡)礼:<そうもんのこつじきじゅんれい>と読む。「桑門」は僧侶。 唯無智無分別にして、正直偏固の者:<ただむちむふんべつにして、しょうじきへんごのもの>と読む。ただただ理屈はなく、正直一点張りの意。 剛木(毅)朴訥の仁:<ごうきぼくとつのじん>と読む。ただ真面目で質朴というのだけが取り柄の人、の意。 気稟の清質:<きひんのせいしつ>と読む。生まれつきの清らかな性質のこと。 |
日光 そのニ の 大意把握のためのQ
Q1: | 日光山(御山)に参拝したのは、何月何日? | |
Q2: | 日光山は、もともと何という名前だったか? | |
Q3: | いつ、日光山という名前に変わったか? |
原文 | 語注 |
卯月朔日、御山に詣拝す。往昔、此御山を「二荒山」と書しを、空海大師開基の時、「日光」と改め給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏やかなり。猶、憚多くて筆をさし置ぬ。 あらたうと青葉若葉の日の光 |
卯月朔日、御山に詣拝す:<うづきついたち、おやまにけいはいす>と読む。「御山」は日光山のこと。 往昔:<そのかみ>と読む。昔の意。 二荒山:<ふたらせん>と読むが、音読みでは<にっこうさん>、これを弘法大師が音読みにして日光山と命名したというのである。真偽のほどは分からない。 日光の開基は勝道上人と言われていて弘法大師空海ではない。 恩沢八荒にあふれ、四民安堵の住みか穏やかなり:日光が言わずと知れた徳川家康をまつる東照宮であってみれば、恩沢が八荒(日本国中の意)に溢れているのは徳川政権への賞賛に他ならない。加えて、「はばかり多くて、筆をさし置きぬ」とあるは、信仰のゆえか、徳川に対する世辞か?。なお、「八荒」は二荒山にかけて表現した。 |
日光 その三 の 大意把握のためのQ
Q1: | 芭蕉の弟子の、氏名は? | |
Q2: | 芭蕉の弟子の、俳号(ペンネーム)は? | |
Q3: | 芭蕉の弟子の作った俳句は? |
原文 | 語注 |
黒髪山は霞かゝりて、雪いまだ白し。
|
黒髪山:男体山のこと。日光連山の主峰。ここもまた歌枕で、「身の上にかからむことぞ遠からぬ黒髪山に降れる白雪」(源 頼政)がある。 芭蕉の下葉に軒をならべて、予が薪水の労をたすく:<ばしょうがしたばにのきをならべて、よがしんすいのろうをたすく>と読む。曾良は深川芭蕉庵の近くに住み、芭蕉の生活の助けをしたことを言う。人間芭蕉を、芭蕉庵の芭蕉の木(本当は草)にかけた言い回し。 羈旅の難:<きりょのなん>と読む。旅の苦労を言う。 |
日光 その四 の 大意把握のためのQ
Q1: | どのくらい山を登ったら、滝があったか? | |
Q2: | その滝の名前は? |
原文 | 語注 |
廿余丁山を登つて瀧有。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落たり。岩窟に身をひそめ入て、瀧の裏よりみれば、うらみの瀧と申伝え侍る也。 しばらくは瀧にこもるや夏の初め |
岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭:<がんとうのいただきよりひりゅうしてひゃくしゃく、せんがんのへきたん>と読む。巨大な岩山の頂上から流れ出した水は、百尺もある落差をもって,岩だらけの滝壷に落ちていたのである。碧潭<へきたん>は滝壷のこと。百尺<はくせき>と千岩<せんがん>をかけた。 うら(裏見)の瀧:日光から西へ6キロ程の場所にある。 |
那須 の 大意把握のためのQ
Q1: | 那須の黒羽へ行く途中の野原で、泊めてもらったのは誰の家? | |
Q2: | 道に迷うそうになったので、道を尋ねたのは誰? | |
Q3: | その人は、迷子にならないように、何かを貸してくれました。それは何? | |
Q4: | そのお礼に、芭蕉は最後にどんなことをしましたか? |
原文 | 語注 |
那須の黒ばねと云所に知人あれば、是より野越にかゝりて、直道をゆかんとす。遥に一村を見かけて行に、雨降日暮る。農夫の家に一夜をかりて、明れば又野中を行く。そこに野飼の馬あり。草刈おのこになげきよれば、野夫といへども、さすがに情しらずには非ず。「いかヾすべきや。されども此野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷旅人の道ふみたがへん、あやしう侍れば、此馬のとヾまる所にて馬を返し給へ」とかし侍ぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したひてはしる。独は小姫にて、名を「かさね」と云。聞なれぬ名のやさしかりければ、 かさねとは八重撫子の名成べし 曾良 頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付て馬を返しぬ。 |
黒ばね(羽):<くろばね>では芭蕉一行は長逗留をした。栃木県那須郡黒羽町。この時代は、大関大助増恒の1万9千石の城下町であった。 知人:<しるひと>。後出の館代秋鴉<しゅうあ>とその弟の翠桃のこと。 是より野越にかゝりて:<これよりのごえにかかりて>と読む。この「野」が那須野である。 直道:<すぐみち>と読む。近道のこと。 雨降日暮る:<あめふりひくるる>と読む。 野飼の馬:<のがいのうま>。野で飼っている馬ではなく、畑につれてきてそこにつないである農耕馬のこと。 草刈おのこになげきよれば:道案内を草刈中の農夫に嘆願したの意。 野夫:<やふ>と読む。田舎者の意。後世「ヤボ」はこれが語源という。 うゐうゐ敷旅人の道ふみたがへん:<ういういしきたびびとのみちふみたがえん>。このあたりの地理に不案内な旅人では道に迷うことであろう、の意。 独は小姫にて:<ひとりはこひめにて>とよむ。曾良本では「小娘」となっている。蕪村絵参照。この娘かさねは後に鬼怒川の与右衛門の妻になったのではないかという(『奥細道菅薦抄』参照)。 「かさねとは八重撫子の名成べし」:かさねとはとてもかわいらしい名前だが、花ならさしずめ八重ナデシコの名前といったところだろう。 頓て:<やがて>と読む。 あたひを鞍つぼに結付て馬を返しぬ:<・・くらつぼにむすびつけて・・>と読む。いくらかの謝金を馬の乗鞍に結び付けて馬を返したのだが、馬は自分の家に帰る習性があるので無事に帰ったことであろう。 |
の 大意把握のためのQ
Q1: | 黒羽の知り合いの名前は? | |
Q2: | 芭蕉が見学したところを答えなさい。 | |
1 (
の跡
) ↓ 2 ( ) ↓ 3 ( の古墳 ) ↓ 4 ( ) … 与市にゆかりの地 ↓ 5 ( 寺 ) ↓ 6 ( 堂 ) |
黒羽の館代浄法寺何がしの方に音信る。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語つヾけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し、那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。 それより八幡宮に詣。与市扇の的を射し時、「別しては我国氏神正八まん」とちかひしも、此神社にて侍と聞ば、感応殊しきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。 修験光明寺と云有。そこにまねかれて、行者堂を拝す。 夏山に足駄を拝む首途かな |
黒羽の館代浄法寺何がしの方に音信る:<くろばねのかんだいじょうぼうじなにがしのかたにおとづる>と読む。芭蕉一行は、黒羽藩城代家老浄法寺図書高勝、俳号桃雪<とうせつ>を訪ねた。なお、桃雪宅を訪れた際の挨拶吟「山も庭も動き入るるや夏座敷」が残る。 桃翠:<とうすい>。桃雪の弟。芦野の領主で芦野民部資俊で、桃雪とは年子で28歳であった。実は、「桃翠」ではなく「翠桃<すいとう>」が正しい。芭蕉の杜撰。なお、翠桃宅への道すがらとして読んだ句「秣負う人を枝折の夏野哉」がある。資俊は、ここにあるようにこのとき元気に芭蕉の接待をしているが、元禄5年6月26日に死去。 犬追物の跡:狐の化身である玉藻の前を捕らえた狩の跡といわれる場所。狐は犬に似ているところから、この玉藻逮捕劇のことを犬追物というのである。 那須の篠原:芭蕉の頭に、実朝の歌「もののふの矢並つくろふ小手の上に霰たばしる那須の篠原<・・やなみつくろうこてのえにあられたばしるなすのしのはら>」がよぎったか。 玉藻の前の古墳:「玉藻の前」は美貌並びなき鳥羽院の寵妃。ある年の七夕の夜、満天の星空が突如曇り、一陣の風が吹いて宮殿の全ての灯りを消した。そして金色の光を放つ「玉藻の前」がそこに居た。安部の泰成というものに占わせたところ、玉藻は実は金毛九尾の狐の化身であることが分かり、調伏されて那須野に逃げた。しかし、狐退治に派遣された三浦介義明や上総の介に射殺されあえなく死んだ。この狐退治劇こそ「犬追物」である。その怨霊が殺生石となって、以後空を飛ぶ鳥や虫を殺しつづけていたのだが、旅の僧が成仏させて悪事を働かなくなったという。謡曲『殺生石』参照。殺生石は火山性の硫化ガスの噴出によるもので、芭蕉が尋ねたこの時代にもガスは毒を放っていたのである。黒磯駅に今でも「九尾弁当」が有るかどうか? 貧しかった学生時代、仙台と東京の行き帰りに、黒磯駅でこの弁当を食べるのが唯一の楽しみであった。 八幡宮:那須八幡神社。応神天皇をまつる。 与市、扇の的を射し時:与市<よいち>は那須与一。彼はこの地の出身と言われている。義経の家臣から、壇ノ浦の戦いで、平家方の小舟の扇の的に狙いを定めて、「南無八幡大菩薩。…願わくはあの扇の真中に射させてたばせたまへ」と祈ったという。『平家物語』にある。 修験光明寺と云有:<しゅげんこうみょうじというあり>と読む。役行者<えんのぎょうじゃ>をまつる。役行者の一本足の下駄が安置されている。 |
雲眼寺 の 大意把握のためのQ
Q1: | 雲岸寺の奥にある、何を見に行ったのか? | |
Q2: | そこには、どんな和歌が岩に書かれているか? | |
Q3: | そこで、作った芭蕉の俳句は? |
殺生石 の 大意把握のためのQ
Q1: | 館代から殺生石まで芭蕉は何で移動したか? | |
Q2: | なぜ、芭蕉はここで俳句を創ったのか? | |
Q3: | 殺生石は、どこにあるか? |
原文 | 語注 |
是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞。やさしき事を望侍るものかなと、 野を横に馬牽むけよほとゝぎす 殺生石は温泉の出る山陰にあり。石の毒気いまだほろびず、蜂・蝶のたぐひ、真砂の色の見えぬほどかさなり死す。 |
口付のおのこ:<くちつきのおのこ>。馬子。実際はただの馬子ではなく館代桃雪の御者のようなしっかりした人物ではなかったか? この男に作ってやった「野を横に…」の句が後代まで残っているのがその証拠ではないか。曾良の『旅日記』では、図書家来角左衛門となっている。 殺生石:<せっしょうせき>。ここは、いまの那須温泉湯元。この石の周りには那須岳の火山性夕毒ガスが絶えず発している。殺生石は、玉藻の前の化身とされている。なお、ここでは、「湯をむすぶ誓ひも同じ石清水」、「石の香や夏草赤く露暑し」の2句を詠んでいた。 |
芦野 の 大意把握のためのQ
Q1: | 「清水ながるるの柳」は、芭蕉の尊敬する西行の和歌に関係があります。口語訳の部分から、その西行の和歌を答えなさい。 | |
Q2: | 「清水ながるるの柳」は、どこにあるか? |
原文 | 語注 |
又、清水ながるゝの柳は、蘆野の里にありて、田の畔に残る。此所の郡守戸部某の、「此柳みせばや」など、折をりにの給ひ聞え給ふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日此柳のかげにこそ立ちより侍つれ。 田一枚植ゑて立ち去る柳かな |
清水ながるゝの柳:西行の歌「道のべに清水流るる柳かげしばしとてこそ立ちどまりつれ」とあるによる。謡曲『遊行柳』の舞台でもある。栃木県那須郡那須町芦野にある。遊行は、浄土真宗系時宗のこと。謡曲『遊行柳』では、この柳は朽ちていたが、一遍上人(遊行上人)が訪れたとき柳の精が現れて西行の出家と奥州下向の話をし、かつ道案内をしたとされている。しかし、その舞台は白河関より北にあるとされているので、地理的には一致しない。謡曲の作者観世小次郎信光の誤りであろう。 蘆野の里:<あしののさと>と読む。現栃木県那須町芦野、奥州街道の宿駅。 郡守戸部某:<ぐんしゅこほうなにがし>と読む。芦野の領主葦野民部資俊(あしのみんぶすけとし)で俳号翠桃<すいとう>のこと。芭蕉の弟子で黒羽の陣代家老浄坊寺図書高勝(俳号桃雪)の弟。 「此柳みせばや」など、折をりにの給ひ聞え給ふを:この柳を私に見せたいと翠桃はしばしば言っていたものだが、の意。手紙でか会ってか?。 |
信夫 の 大意把握のためのQ
Q1: | 芭蕉は「忍ぶのさと」に何を見にいったのか? | |
Q2: | それは、もともとはどこにあったのか? | |
Q3: | 解説を読んで、芭蕉が見に行った石は、何に使ったのか、答えなさい。(注) |
原文 | 語注 |
あくれば、しのぶもぢ摺りの石を尋て、忍ぶのさとに行。遥山陰の小里に石半土に埋てあり。里の童部の来りて教ける、「昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして、此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と云。さもあるべき事にや。 早苗とる手もとや昔しのぶ摺 |
しのぶもぢ摺の石:昔、安積国信夫郡でとれた忍草の茎や葉の色素で、ねじれたような模様の摺絹をつくったが、これはもじ摺りの石にこすりつけて作ったと解されていた。福島市山口の文智摺観音境内にあった。 遥山陰の小里に石半土に埋てあり:<はるかやまかげのこさとにいしなかばつちにうずもれてあり>と読む。 さもあるべきことにや:本当にそんなことがあったのだろうか? |
解説(P69からの引用) 朝顔の花をもんでハンカチなどにこすりつけたことはありませんか。あざやかな色が染めつけられるでしょう。こすりつけるときに、下にでこぼこもようのあるものを敷くと、そのもようのようなすりつけ染めができます。「もじずり」は、「もじりずり」だともいわれ、よじれたようなもようのある石の上に布をおいて、しのぶ草(しだの一種の、のきしのぶか?)の葉をこすりつけて、染めたもののようです。くわしいことはよくわかりません。 |
飯坂 の 大意把握のためのQ
Q1: | 飯塚の夜は、芭蕉にとってとても大変な夜でした。その理由を三つ、答えなさい。 |
原文 | 語注 |
其夜飯塚にとまる。温泉あれば、湯に入て宿をかるに、土坐に筵を敷て、あやしき貧家也。灯もなければ、ゐろりの火かげに寝所をまうけて臥す。夜に入て、雷鳴雨しきりに降て、臥る上よりもり、蚤・蚊にせゝられて眠らず、持病さへおこりて、消入計になん。短夜の空もやうやう明れば、又旅立ぬ。猶、夜の余波、心すゝまず。馬かりて桑折の駅に出る。遥なる行末をかゝへて、斯る病覚束なしといへど、羈旅辺土の行脚、捨身無常の観念、道路にしなん、是天の命なりと、気力聊とり直し、路縦横に踏で伊達の大木戸をこす。 | 飯塚:福島市郊外の飯坂温泉。 持病さへおこりて、消入計になん:<じびょうさえおこりて、きえいるばかりになん>と読む。芭蕉の持病は言わずと知れた胃弱と痔疾であった。この二つには常住苦しめられた。『曾良旅日記』には、飯坂に宿泊して風呂に入ったということ以外に記述は無いのでここの表現は「尿前の関」と同様文飾であろう。 桑折の駅:桑折は、福島市の北、伊達郡桑折町。奥州街道の宿場町であった。 羈旅辺土の行脚、捨身無常の観念:<きりょへんどのあんぎゃ、しゃしんむじょうのかんねん>と読む。名も無い片田舎を旅すること、何事も無常と心得て身を捨てる覚悟をいう。 路縦横に踏で:<みちじゅうおうにふんで>と読む。脇道などを歩いて、の意。 伊達の大木戸:福島県伊達郡国見町にあった伊達藩への関門 。その昔、藤原泰衡はここで源頼朝を迎え撃った。 |
武隈の松 の 大意把握のためのQ
Q1: | 武隈の松は、どんな形をした松か? 原文で答えなさい。 |
仙台 の 大意把握のためのQ
Q1: | 仙台で知り合いになった人は、どんな人? | |
Q2: | その人が、芭蕉との別れに贈ったものを二つ答えなさい。 |
原文 | 語注 |
名取川を渡て仙台に入。あやめふく日也。旅宿をもとめて、四、五日逗留す。爰に画工加右衛門と云ものあり。聊心ある者と聞て、知る人になる。この者、年比さだからぬ名どころを考置侍ばとて、一日案内す。宮城野の萩茂りあひて、秋の気色思ひやらるゝ。玉田・よこ野、つゝじが岡はあせび咲ころ也。日影ももらぬ松の林に入て、爰を木の下と云とぞ。昔もかく霧ふかければこそ、「みさぶらひみかさ」とはよみたれ。薬師堂・天神の御社など拝みて、その日はくれぬ。猶、松島・塩かまの所々画に書て送る。且、紺の染緒つけたる草鞋二足餞す。さればこそ、風流のしれもの、爰に至りて其実を顕す。 あやめ草足に結ばん草鞋の緒 |
あやめ葺く<ふく>日:5月4日。端午の節句を前にして、夜に軒端に菖蒲を葺く習慣があった。 画工加右衛門:北野屋という俳諧書林を営んでいた。 聊心ある者:<いささかこころあるもの>と読む。風流の感性のある人の意。 年比定からぬ名所を考置侍ばとて:<としごろさだからぬなどころをかんがえおきはべればとて>と読む。ここ数年来、古歌や歌枕で知られてはいるものの、場所の特定されない名所を時代考証しておいた、の意。 宮城野:仙台市東方郊外。現在は仙石線沿線宮城野球場などがある。歌枕として有名。 玉田・横野:歌枕。仙台市東郊。「取りつなげ玉田横野の放れ駒つつじが岡にあせみ咲くなり」(源俊頼)。あせみ=あせび(馬酔木)は5月のこの時期には仙台では咲かない。 つつじが岡:仙台東郊。現在は仙石線で仙台の隣接駅になっている。 薬師堂:<やくしどう>。木の下にある陸奥国分寺跡。伊達正宗により修造された。 天神の御社:<てんじんのみはしら>。榴ケ岡にある天神社。伊達綱村によって再建された。 |
平泉その一 の 大意把握のためのQ
Q1: | 芭蕉が、高館に登ってながめた風景が書かれている部分の初めと最後を答えなさい。 | |
Q2: | 芭蕉が高館に登って景色を眺めた後、何をしましたか。したことの書いてある一文を抜き出しなさい。 |
原文 | 語注 |
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐって此城にこもり、功名一時の叢となる。「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」と、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。 夏草や兵どもが夢の跡 卯の花に兼房みゆる白毛かな 曾良 |
三代の栄耀一睡の中にして:<さんだいのえいよういっすいのうちにして>と読む。奥州藤原三代、清衡・秀衡・泰衡をさす。一大政治勢力を築きあげたが、頼朝によって滅ぼされた。 大門:南大門のことだが、不祥。 秀衡が跡:秀衡の存命当時には、伽羅の御所と呼ばれていた。 金鶏山:藤原秀衡がその栄華を示そうと富士に似た小山を築造し、その山頂に金の鶏を埋めたとされる。 高館:<たかだち>と読む。義経の館の名前。 衣川:<ころもがわ>。平泉の東側から北上川に流入する川。 和泉が城:<いずみがじょう>。秀衡の三男和泉の三郎の居城。 泰衡:<やすひら>。秀衡の次男。義経主従を殺害して頼朝に忠誠を誓ったが、結局鎌倉軍によって滅亡させられた。 衣が関:<ころもがせき>。中尊寺表参道入り口付近。 南部口をさし固め、夷を防ぐと見えたり:<なんぶぐちを・・、えぞをふせぐと・・>。南部方面から平泉に侵入してくる蝦夷から防衛しているという意味。 偖も義臣すぐってこの城にこもり、功名一時の叢となる:<さてもぎしんすぐって・・、こうみょういっときのくさむらと・・>。義臣は、義経の家臣、弁慶や兼房を指す。この城に籠って泰衡らの攻撃に耐えたが、その戦いも今こうして草むらとなってしまってはかないことだ、の意。 「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」:杜甫の望春の詩「国破れて山河あり、城春にして草木深し、・・・・・」を引用。 「卯の花に兼房みゆる白毛かな」:白い卯の花を見ていると、白髪の兼房が槍をふるって戦っている姿が脳裏に浮かんでくることだ。藤原兼房は 長保三〜延久元(1001-1069)の歌人として名を残す。 |
出羽越え その一 の 大意把握のためのQ
Q1: | この部分で、芭蕉は、関所の役人に怪しまれました。その理由を答えなさい。 | |
Q2: | 封人の家に3日間足止めになりました。その理由を答えなさい。 |
原文 | 語注 |
南部道遥にみやりて、岩手の里に泊る。小黒崎・みづの小島を過て、なるごの湯より尿前の関にかゝりて、出羽の国に越んとす。此道旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす。大山をのぼって日既暮ければ、封人の家を見かけて舎を求む。三日風雨あれて、よしなき山中に逗留す。 蚤虱馬の尿する枕もと |
南部道遥にみやりて:<なんぶみちはるかにみやりて>と読む。もっと北上したいのだが諦めて、という意味をこめているが、芭蕉一行は平泉より北に向かう計画は当初から無かった。
岩手の里:宮城県岩出山町 小黒崎・みず<美豆>の小島:二つとも鳴子町にあった歌枕。 尿前の関:宮城県玉造郡鳴子町。温泉町として有名。源義経一行が都から平泉めざして落ちのびていく途中、ここで義経夫人が出産した。その子供の鳴き声が鳴子の命名とか、その子をあやすために首を廻すと音の出るこけしを作ったとか、その子が初めて小便をしたために尿前の関というとか、義経に関わるさまざまな伝承がある。 出羽の国:今の山形県。 此道旅人稀なる所なれば、関守にあやしめられて、漸として関をこす:<このみちたびびとまれなるところなれば、せきもりにあやしめられて、ようようとしてせきをこす>と読む。現在では陸羽西線が通り、また東北自動車道古川インターチェンジからの自動車の往来も頻繁だが、当時は全くといっていいほど通行人は無かったのであろう。関守が怪しむのは無理もない。 封人の家を見かけて舎を求む:<ほうじんのいえをみかけてやどりをもとむ>と読む。封人は国境の番人 。ここは山形県最上町。 三日風雨荒れて:芭蕉はここに3日足止めをくらったことにしているが、事実は5月15、16日の二日間だけであった。大変な思いをしたという文学的粉飾。 |
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