010503−2 思考ユニット教材研究「マスメディアを通した現実世界」   TOPへ戻る

はじめに

このページは、010503−1 説明的文章「マスメディアを通した現実世界」へも関連があります。あわせてご覧ください。


凡例  思考ユニットの表し方  

思考ユニットの記号については  010401  思考ユニット外字一覧 参照

大きな文塊 を □囲み

構文素文にあたる文塊は グレーの背景色
予告文的な要素にあたる文塊は 黄色の背景色
まとめてきな要素にあたる文塊は ピンクの背景色
その他の小さな文塊 を その他の色の背景色


マスメディアを通した現実世界   池田謙一

[1]もう四十年近くも前の、わたしが子供のころの出来事です
       ‖ 予告的いいかえ

初の日米間テレビ宇宙中継となった記念すべきその放送は、冒頭からふさわしからぬことを語りだしました。
       ↑ ドノヨウニ
「すでにニュースで御存じと思いますが、アメリカ合衆国ケネディ大統領は、十一月二十二日、日本時間二十三日午前四時、テキサス州ダラス市において銃弾に撃たれ死亡しました。このような悲しいニュースをお送りしなければならないのはまことに残念に思います。」

      (この日)への繰り込み展開
[2] この日、日本は勤労感謝の日。
       ↓ イツ

わたしは休日にもかかわらず早朝から起きだして、楽しみにしていた宇宙中継を家族いっしょに見たのでした。
       [行→展](順接) スルト展開
当時はまだ、いつでも、何時間でも中継可能というわけではなく、短時間の不鮮明な画像が伝わってくるばかりでした。
       [⇒](逆接)  OR (この中継)への繰り込み展開
[3] それでもこの中継は、 わたしたちに 「地球村」を実感させるのに十分でした。
       ↑ ナゼナラ
地球の裏側から、わずか数時間前の生々しい映像が届き、しかもそれが、世界も日本も揺るがせた大事件を身近に感じさせるものだったからです。

       (さて、その事件の震源地アメリカへの) 別の話題への繰り込み展開 ? 

[4] いうまでもなく、事件の震源地アメリカの受けた衝撃は巨大でした。
       [⇒](順接)
ニュースは瞬時ともいえる速さで広まりました。
       (その証拠に)繰り込み展開
ある調査によれば、狙撃が伝えられてからわずか一時間の間に、九割もの人が事件を知りました。
       (九割もの人→そのうちの約半数への繰り込み展開)
そのうちの約半数は人づてに、他の半数はテレビやラジオでこれを知りました。
       (そのうちの約半数→前者への繰り込み展開)
前者の大半は知ったあと、何が起こったかをテレビで確認しようとしました。
       (人々への繰り込み展開)
[5] 人々の行動は、マスメディアヘの接触だけにはとどまりませんでした。
       ↑ ナゼナラ
事件について語り合いたいという気持ちが、とめどもなく心の中を駆け巡ったのです。

       ‖ 裏返し的いいかえ
ほとんどだれもが自分の気持ちを他人と分かち合おうとしました。
      +
そして、その日のうちに十五人以上もの相手と事件について語り合った人が、全体の三分の一にも達しました。

      ([1]〜[3]が この出来事 への 繰り込み)
      ([4][5]が  調査 への 繰り込み)
     [大きな論理関係としては[1]〜[5]を理由として以下の「マスメディアと受け手との関係」を述べる]
       [⇒](順接) ソコデ型展開

[6] この出来事と調査からマスメディアと情報の受け手との関係は次のように考えられます

      ‖ 予告的いいかえ

[7] わたしたちの世界で何が起こっているかは、マスメディアが伝達する役割を果たしています。
      ↑ ナゼナラ
人づてに聞いた暗殺をテレビで確認しようとするのも、マスメディアが事件や出来事を共有できる形で伝えていると、わたしたちが信じているからです。
   
その意味で、マスメディアは共有性の保証人であり、地球村を支える屋台骨なのだともいえるかもしれません。
    
それを前提として初めて、わたしたちはオリンピック中継の華やかさも、平和条約締結の現場中継の厳粛さも共有することが可能になるのです。

[8] しかし、マスメディアの情報だけでは、わたしたちは出来事を実感し、納得し、その意味をくみ取り尽くすことはできません。

周りの家族や友人が、伝えられていることは本当のことだ、現実に起こったことだと同意し、彼らと自分との間に経験や感動の共有が生じるからこそ、わたしたちはそれを等身大の生きた現実の像として初めて確信できるのです。

また、それがわたしたちの生活や人生にとってどんな意味があるのかも導き出すことができるのです。

例えば「大統領の死」のもつ意味を語り合うことは、 「アメリカ人としてのこれからの自分たち」 を主体的に模索するきっかけを提供したのです。

[9] このように、わたしたちは、マスメディアを用いながらも主体的に現実の像を形成していくわけですがマスメディアには、その形成に影響する重要な、しかし気づかれにくい特徴があります

        ‖ 予告的いいかえ

[10] 先にわたしは、マスメディアを共有性の保証人とよびました。しかし、マスメディアが世界中の出来事すべてを伝えるのはとうてい不可能です。ニュースとして伝えられるのは、その日に起こった何千、何万という出来事のうちのほんのわずかです。どうしても送り手の側で、何を重視して伝えるか、選択せざるをえません。また、取り上げたニュースは、その重要性を強調するために、視覚に訴えたり、印象に残るような言葉を用いたりと、さまざまな工夫を凝らして加工することになります。

[11] その場合、問題は、わたしたちがその選択され、加工された現実を、忠実な「現実の鏡」 として見がちなこと、そして、報道のしかたによって思いがけない影響を受けがちなことにあります。

[12] 例えば、不況や失業といった社会問題を報道するとき、テレビのニュースはどのように報道するでしょうか。一つの典型を、わたしは「鳥瞰情報型」とよびます。全国調査で何割の人が不況で苦しんでいるとわかった、あるいは失業者は全国で百何十万人にも達したと、全体を眺め渡して鳥瞰図のように報道するものです。もう一つの典型は「エピソード情報型」です。ある県の、ある市の、ある企業では、円高による輸出の不振でどん底状態に陥っている、そこで働いている人はこんなに生活に苦しんでいるのだと、具体例によって、つまりエピソードを挙げて報道するものです。

[13] テレビというメディアは、「映像が命」だといういい方をよくします。このことを考えると、右の二つの典型のうち、放送されやすいのは後者のエピソード情報型です。苦しむ人々の「生きた姿」を映し出すからです。それは見る人にとって、ときには深い同情や感動を引き起こすことでしょう。

[14] しかし、こうした二つの対比的な報道の型の影響を検討した研究によると、エピソード情報型には特有の難点が存在しています。生きた映像は、しばしば具体的な特定の人物のエピソードです。社会全体の状況を映し出すものではありません。視聴者がそれを社会問題として、人人が力を合わせて解決していかなければならない課題として受け止めるのは、実は難しい。画面に映ったエピソードの人物や企業の、個別の苦しみとしてのみ受け取ってしまう傾向が生じます。つまり、社会全体の課題であるにもかかわらず、個人的に、あるいは個々の企業として解決すべき問題だという印象を与えるのです。本当は社会の中で解決していくべき重要な課題として、その「生きた姿」を報道しようとしたものが、「映像」を求めるあまり、意図に反して個人の問題だという印象を生み出してしまうのです。

[15] いっぽう、鳥瞰情報型のニュースには、そうした難点はありません。この型のニュースに接した人々は、問題を社会的に皆で解決していくべきものと、より受け止めやすくなっていました。ただし、この型の弱点は、そのわかりにくさにあります。数字として抽象化された人々の喜怒哀楽は、ときに漠然としすぎていて理解が困難です。ここでは、問題を客観的に伝えようと意図しながら、思いもかけず、それが伝わらなくなってしまうのです。

[16] ニュースばかりではなく思いがけない影響はほかにもあります。テレビというメディアは、感動や同時体験を提供してくれるものでありながら、しかし逆に、感動のしかた、何を体験すべきかをわたしたちに指し示す、マニュアルのような役割も果たしてしまっている点です

[17] テレビは観光名所の「さわり」を常に見せます。十年に一度のフェスティバル、厳かな真冬の年中行事、国内国外を問わず、最高の時期の最高の理想的シーンを伝えます。
        [⇒](順接) ソコデ型展開
[18] このため、観光とは、テレビで麗々しく紹介された所が本当にそれに値するのかどうかを確かめ、実際にそうだと安心するために行くようなもの、そして伝達され、すでに形成されたイメージの中の異郷に行くためのものという側面がぬぐい去れません。テレビに映るのは名所や行事のほんの一部でしかないのに、場合によってはその一部だけを見ようとすることにもなりかねません。目の前の異郷の現実はもっと広く豊かで美しく、もっとほかにも見るべき部分があるのに、テレビによって形成された理想の「現実のかげ」だけを見て、紹介されたとおりだと納得するのが観光と化してはいないでしょうか。
        +
[19] また、サファリに行けば、猛烈なほこりとハエの群れに直面しなければならないし、ゾウのふんのにおいも体験しなくてはならないかもしれません。しかし、それは、あなたのイメージにある「サファリ」の現実とはおそらく違うのです。そこで感じられる「こんなはずではなかった」という違和感は、あたかもテレビに加工されてしまった元の現実が復讐しているかのようでもあります。その「はず」はテレビが形成したものなのに、あなたはテレビのイメージのほうに固執して目の前の現実に否定的になってしまうかもしれません。テレビが共有性の保証人ではあっても、「現実の鏡」そのものではないことを忘れて。

      ‖ まとめ的いいかえ

[20] このように、わたしたちの身近にあるマスメディアは、わたしたちにとって世界がどう見えるか、世界をどう見るかに大きなかかわりをもっていますとすれば、今わたしたちが考えなければならないのは、次の二つのことです

      ‖ 予告的いいかえ

[21] 一つは、 マスメディアの情報について、 わたしたちはそれを忠実な 「現実の鏡」だと感じてしまいがちですが、そうではないことを常に念頭におく必要があることです。
      +
[22] もう一つは、人との語り合いの重要性です。

マスメディアの提示する現実の姿は、周囲の人々との語り合いという共同作業によって初めて自分にとって生きた現実として確信できるのでした。

それは同時に、語り合いを通じてマスメディアの情報を自分なりに取捨選択し、自分にとっての現実の像を構成していくことでもあります。

「わたしにとって、 これこれの社会問題がもつ意味」 は、 こうして構成されるのです。

このとき、自分と違う立場の人、違う意見をもつ人との語り合いが、より必要でしょう。

それによって、現実の像を共有する人の輪は確実に広がるのです。

現在の社会では、ときにテレビのみを相手にして一日が過ぎていることもあるようですが、わたしたちは他者との語り合いという共同作業がもつ役割をもっと認識しておきたいものです。