(2006/08/16
記)
竹田博之氏からのコメント第1弾のご紹介と井上秀喜のコメント
竹田博之氏のホームページに書き込みをしたところ、竹田氏からのコメント第1弾を以下のようにいただいた。ホームページを公開している私にとって竹田氏のようなコメントをいただけることは大変ありがたい。大西忠治氏の「柱」概念について竹田氏の感じる疑問点や限界性をコメントいただいたので、私の考えを少しずつ述べていきたい。大西忠治氏考案の「柱」概念について、現在の読み研でもその問題点などを追求しているので、現時点で明らかにされた読み研での「柱」概念についての研究の成果の上に立ってコメントできればいいのだが、私にそれだけの力量はないので不十分な点などもあることをご理解いただきたいことを最初にお断りしておく。
私も竹田氏と同じく「柱概念」を使って教材分析をしていくとスッキリしない部分(柱がどこなのかよくわからない部分)があると感じてきた。
また、「柱概念」への疑問点を私のホームページに書き込んだり、市販の書籍に掲載されていない読み研運営委員の方の原稿を転載させていただいたりしている。(そういう私自身の悩みと竹田氏の「柱」概念についての問題意識は重なっているので、竹田氏のコメントは興味深く読ませていただいた。)
例えば、私のホームページには以下のような原稿を掲載している。ぜひ、お読みいただき、「柱」概念だけにとどまらず、説明的文章の読み方指導についてみなさんからのご意見をいただければありがたい。
010104 阿部昇著『授業づくりのための「説明的文章教材」の徹底批判』からの学び
01010401 阿部昇氏への質問
010105 研究紀要(科学的「読み」の授業研究会編)からの学び
01010501 小学校低学年の説明的文章読解指導
―「すみれとあり」(教育出版・小ニ・上)を例に― 柳田良雄氏 への質問
07010102 阿部昇著『授業づくりのための「説明的文章教材」の徹底批判』を徹底批判する
にいがた国語の会&にいがた高校国語サークル
著 1998年8月 より
○ 「記録文」の読みは文章のよみの基本である
長畑龍介氏 (P32〜46)
○ 阿部昇著『授業づくりのための「説明的文章教材」の徹底批判』を徹底批判する
丸山義昭氏 (P6〜27)
○ 『徹底批判』の「柱」設定を検討する
五十嵐淳氏 (P52〜59)
○ 『「説明的文章教材」の徹底批判』(阿部昇著)における「補足」と「まとめられ」を検討する
――「シンデレラの時計」を中心に――
五十嵐 淳氏 (P81〜85)
○ 文相互の関係を説明する新しい分類は妥当か?
――「人類はほろびるか」(日高
敏隆)を再検討する ―― 神田
富士男氏 (P76〜80)
まず、竹田氏のコメントを以下四角囲みで引用する。
September 07, 2006 http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2006/09/index.html
要約指導〜「柱」概念への疑問〜
要約指導に関する私のブログ(ここ)に、井上さんという方からコメントをいただいた。
井上さんの教材分析を見ると、「読み研方式」というか「柱概念」であることが分かる。
大西忠治氏の書籍を読んで「柱概念」について、少し学んだことがある。
不確かだが、宇佐美寛氏が「柱概念」を批判していたと思う。そのような文章も読んだ。
宇佐美氏の論に乗っかるわけではないが、僕も「柱概念」には、疑問というか限界を感じたことがある。
===============
僕は彼女のことが好きで好きでたまらなかった。
僕は彼女に電話するかどうか悩みに悩んだ。
しかし、僕は彼女に電話しなかった。
================
この3つの文で「柱」を選ぶというのは、どの文を選べと言うことなのだろうか。
最終結果としての行動・結論として考えたら最後の「電話しなかった」であろう。
しかし、「電話しなかった」という行動は好きで好きで、悩みに悩んだという結果である。
そう考えると、私には「柱の文」を見つけるということは、決して簡単なことではないのだと思う。
教師でさえ、迷い揺れるような概念では授業できないと思うのだ。(続く)
9/10追記
「事後法で裁けない」と同じで、柱概念を意識していない文章を柱概念で分析するのは無理がある。
同じくトピックセンテンスを意識していない文章からトピックセンテンスを抽出するのも無理がある。
「起承転結」も同じで、我々が、いくら起承転結が「ああだ、こうだ」と推測しても、当の作者がそのつもりで書いていないなら仕方ない。
教科書教材を分析していると、「これは分析が無理なのではないか」と思える文章がある。
構成やトピックセンテンスを意識していない文章は、いくら緻密に分析しようにも限界がある。
いや、むしろ緻密に分析すると、破綻するのである。
でを
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竹田氏の取り上げている例文について 柱の文は一つに絞らなければならないという誤解
竹田氏は以下の例文をもとに、「柱の文」を見つけることの難しさを次のように述べている。「この3つの文で「柱」を選ぶというのは、どの文を選べと言うことなのだろうか。 最終結果としての行動・結論として考えたら最後の「電話しなかった」であろう。しかし、「電話しなかった」という行動は好きで好きで、悩みに悩んだという結果である。そう考えると、私には「柱の文」を見つけるということは、決して簡単なことではないのだと思う。教師でさえ、迷い揺れるような概念では授業できないと思うのだ。(続く)」
私の考えを述べる都合上、@〜Bの文番号を行頭につけておく。
===============
@ 僕は彼女のことが好きで好きでたまらなかった。
A 僕は彼女に電話するかどうか悩みに悩んだ。
B しかし、僕は彼女に電話しなかった。
================
私なら、上の文は基本的に「記録文」の性質を持っていると考えて、すべて「柱の文」とする。@文とA文は、内容が別のこと/@文は、僕が彼女を大変好きなこと。A文は、僕が彼女に電話するか大変悩んだこと。/である。@文とA文の時間の関係は、「@の後の出来事がA」あるいは「@とAはほぼ同時の出来事(ただし、「僕が大好きだから、彼女に電話するか大いに悩む」ということだろうから@の方がAよりも時間的には前の出来事と考えてよい)」である。@A文は、短時間の「僕の心の揺れ動き」を述べたものではなく、ある程度の幅のある時間の「僕の心理状態」を述べているので、「記録文」と把握するのには無理があるかもしれない。「そして、@A文の後の出来事が、B文。」この例文は、「僕」の生活記録のようなものである。
私も「柱と柱以外の関係」をとらえるとき、時間の論理で書かれた部分「記録文」のところに「柱を設定しようとして混乱してしまった」ことが多かった。「柱と柱以外の関係」が設定できるのは、時間の論理で書かれていない部分である。だから、説明文の中の「記録文」要素の部分を見分けることが大事である。意外に文種「記録文」か「説明文・論説文」かの見極めが「柱と柱以外の関係」を把握するときに大事であることは、理解されていない。竹田氏も、その点で混乱している。
もう一点「柱と柱以外の関係」を読みとることの意味の誤解がある。柱と柱以外の関係を読みとるとは、論理関係を読みとることであって、柱を決めることではないと私は最近考えるようになった。柱と柱以外の関係を読みとることは、論理関係の大きな流をとらえる上で生徒にとっては有効である。
次に、竹田氏は以下のように「柱の設定が明確でない文章に、柱の設定をするのは困難」という趣旨のことを述べている。
「「事後法で裁けない」と同じで、柱概念を意識していない文章を柱概念で分析するのは無理がある。同じくトピックセンテンスを意識していない文章からトピックセンテンスを抽出するのも無理がある。(中略)教科書教材を分析していると、「これは分析が無理なのではないか」と思える文章がある。構成やトピックセンテンスを意識していない文章は、いくら緻密に分析しようにも限界がある。いや、むしろ緻密に分析すると、破綻するのである。」
「柱と柱以外の関係」を軸に書かれている説明文であっても、竹田氏が次のように述べるとおり柱の概念による教材分析が困難な教材が存在することには私も賛成である。
「柱概念を意識していない文章を柱概念で分析するのは無理がある。同じくトピックセンテンスを意識していない文章からトピックセンテンスを抽出するのも無理がある。」「構成やトピックセンテンスを意識していない文章は、いくら緻密に分析しようにも限界がある。いや、むしろ緻密に分析すると、破綻するのである。」
そういう教材の問題点については、
○『徹底批判』の「柱」設定を検討する 五十嵐淳氏
(P52〜59) の五十嵐淳氏の論考が参考になる。以下、その一部分を四角囲みで転載する。全文は、上のページをご覧いただきたい。
六、「柱」の呪縛を越えて 『徹底批判』の「柱」設定を検討する(五十嵐淳氏 新潟読み研のサークル誌に掲載)
今まで、「読み研」教師の中には「柱」絶対視の傾向があったのではないか。つまり、説明文や論説文には必ず確かな「柱」があるという思い込みがあったと思うのである。そして、「読み研」の代表的な実践家である阿部氏もその例外ではない。
しかし、現実には、「柱が弱い」「柱がねじれている」あるいは「柱がない」という場合もあると私は考えている。
「魚の感覚」を使って、具体的に述べてみよう。
「魚の感覚」の本文T([2]〜[6])の「柱」の段落の「柱」の文は、[2]の@「いったい、魚には、色がわかるのでしょうか。」であると私は思う。この文は本文Tの冒頭にあって、これから述べることの「柱だて」をしていると考えるからである。
しかし、この「柱」には欠陥がある。「大小、形のちがいなども区別できること」について述べた[6]を包含していないのである。[6]は視覚を問題にはしているのだが、色の識別以外のことを述べている以上、[2]の@に包含されているとは言えないだろう。
では、[2]の@を「柱」とすることは不適なのか。
私はそうは思わない。これは要するに、この「柱」が持つ弱さ・不十分さと考えればよいのである。
つまり、前文に「赤えぴの赤い色に目をひかれたのでしょうか。」とあるために、色だけを問題にした「柱だて」になってしまったのだが、もともと筆者は「視覚」を意識していたので、「大小、形のちがいなども区別できること」に筆が進み、結果として「柱」の弱さを生むことになったのである。
「柱がない」場合とは、典型的には記録文的なところがそれに当たる。例えば、前述したように、「魚の感覚」の本文Uがそれに近い。ここは[7]の@が「柱」である。しかし、もしこの段落がなかったとしたら、当然本文Uには「柱」がないことになる。時間の順に記録されたところなのだから、基本的にはそれぞれの段落や文は十(プラス)の関係である。だから、ここに「柱」を設定しようとすること自体が不自然になってくるめである。
「柱がねじれている」場合とは、「柱」の持つ方向づけに対して、その後の内容がくいちがっているようなことを指す。
「柱」と「柱」以外の関係になってはいないが、「魚の感覚」の[1]と[2]以降の関係がそれに近いので、例としてあげてみる。
[1] 金魚ばちの中で、金魚が、無心に泳いでいます。そこへ、金魚のえさとして、赤えぴの一きれを投げてやると、水底にいた金魚まで、それを見つけて集まってきます。金魚は、赤えびの赤い色に目をひかれたのでしょうか。それとも、投げこんだときの、かすかな音を聞きつけたのでしょうか。それとも、えびのにおいをかぎ分けたのでしょうか。
[2] いったい、魚には、色がわかるのでしょうか。(中略)魚が実擦に物を見分け、色に感じることができるかどうかを調べるために、科学者たちは、次のような実験をしました。
[3] 青いさらと赤いさらを用意し、青いさらを見せたときは、それにえさをのせてあたえますが、赤いさらを見せたときは、ぽうか何かで、魚をいじめるのです。 |
阿部氏も指摘しているように、[1]は問題提示の前文であるといっていい。だから、厳密に考えれば、[2]は当然、金魚の視覚について論を展開すべきである。
しかし、[2]では魚一般に問題が広がっている。[3]でも、科学者たちの実験ではどんな種類の魚を使ったのか書かれてはいない。少なくとも、金魚ではないようだ。つまり、金魚のことが問題として提示されていたのに、いつのまにか魚一般に問題がすり変わっているのである。
筆者は最初から魚の視覚を問題にするために、最も身近な魚である金魚をとりあげて読者の興味を引こうとしたのだろうが、以上述べたように、厳密に考えると[1]と[2]以降では問題がずれているといえる。
このように、「柱だて」した問題がずれている場合をさして、「柱がねじれている」と言ってよいと私は考える。
(もっとも、[1]の書かれ方は、はっきりした問題提示というより、多分に導入的であるといっていい。事実、[1]の前文としての性格を論議すると、導入・前置きであると主張する生徒が出てくる。したがって、上の例はやや不適切であったかもしれない)
「完全な文章などない」とは、大西氏がよく言っていたことである。とすれば、「柱」とてその例外ではない。欠陥のある「柱」が存在しても何ら不思議はないのである。
このような「柱」の欠陥は、当然、構造よみや要約よみのなかで問題にならざるをえない。そして、そのことを指摘していくのが文章吟味の重要なポイントであると思うのだが、「徹底批判」のP76〜77の『「吟味よみ』の方法」を見るかぎり、阿部氏の吟味よみにはそういった視点が弱いと思われる。このことは、阿部氏が吟味よみの過程を独立させて最後に位置づけようとすることと無縁ではない。構造よみや要約よみの中で当然問題となる「柱」吟味の視点がないから、吟味よみを独立させてもいっこうに困らないのである。
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では、「柱設定の明確でない教材」はどうするのか。
@柱設定ができない教材(部分)については、生徒に柱の決定について授業では扱わない。
A柱設定が明確な部分を使って、生徒に柱を考えさせる。
B柱の欠陥を生徒が指摘できるのならば、五十嵐淳氏の指摘するように「「柱」の欠陥は、当然、構造よみや要約よみのなかで問題」にしていく。
という授業設計が大事である。 (2006/09/12
記)