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010101001 クジラたちの声(中島将行)の「読み研方式による教材研究」  


はじめに 
 光村中1教材に「クジラたちの声」という説明文がある。光村の指導書では、この説明文の構成を/問いと答えという典型的な構成 この教材は、「導入・本文・まとめ」の枠組みになっている。「導入」の部分は、「ちょっと立ち止まって」と同様に、文章全体の問題提起的役割を担っている。そのうえで「本文」の部分で、「〜だろうか」といういい方で、より明確に問題を提起し、答えている。説明的な文章は、問い(問題提起)とその答えによって論理が構成されている場合が少なくない。ここでは、そういった説明的な文章の基本的な特徴を学ぶことができる。/(P136)ととらえている。全体の論理関係は、/導入…[1]〜[4] 本文T…[5]〜[11] 本文U…[12]〜[14] まとめ…[15]/と、光村の指導書には書いてある。
 私は、「問いと答えという典型的な構成」という指導書の見方に違和感を感じた。というのは、本文Tと本文Uがそれぞれ「小問題提示と答え」という論理関係で構成されている点は、「問いと答えという典型的な構成」といってもよいのだが、導入と本文との関係は「本文全体を支配する問題提示と答え」とはとらえにくいからである。しかし、前文の問題提示の性格と、本文の構成要素である小問題提示の性格との違いを学ばせるには、格好の教材だと私は思う。
 つぎに、指導書の「導入」の定義が不明確であると思う。指導書では、/「導入」の部分は、「ちょっと立ち止まって」と同様に、文章全体の問題提起的役割を担っている。/また、/ひと口に「問い」といっても、明確に問いかけの形を取る場合とそうでない場合とがある。この教材の「導入」には、「情報を伝え合っているとしか思えない場面」「クジラには情報を受信・発信する何か優れた手段があるにちがいない」などの提示はあるが、明確に問いかけてはいない。だが、そこには文章全体に向けての問題提起的役割がある。/と、記述してある。指導書では、この教材の導入は、/問いの形ではないが、文章全体に向けての問題提起的役割がある/ととらえている。導入の「文章全体に向けての問題提起的役割」があると指導書には記述されているが、この教材では明確ではないと私はみる。それより、本文Tの問題提示を引き出す役割をしているとみた方が自然ではないかと私は考える。また、あえてこういう性格の明確でない導入を前文として独立させるよりも、本文Tの一部として位置づけた方が生徒の混乱がおきないと私は考える。新潟の読み研サークルの『説明的文章の構造よみをどうおこなうか』(丸山義昭 研究紀要Y P64〜73)が参考になる。
 光村図書に、私の教材分析を示して回答をお願いしてみることにする。また、その回答もこのホームページに掲載させていただきたいことも光村図書にお願いしてみる。
 みなさんからのご意見もお寄せいただければ、このホームページに掲載させていただく予定である。みなさんからのメールをお待ちする。


まず、[ ]で段落番号・○数字で文番号を施した教材文を以下掲載するので、みなさんの構造よみ案を考えながらお読みいただきたい。

クジラたちの声   中島将行   光村中1教材文

[1] @大昔から船乗りたちは、船がクジラの群れに近づくと、低く不気味な音が船底にこだまするのを知っていた。A彼らはそれをクジラの鳴き声だと信じていた。
[2] @しかし、当時の研究者がいくらクジラの体を調べても、声を出すために必要な声帯は見つからなかった。A人々は、声帯がない以上、鳴き声を出すことはできないはずだと考え、船乗りたちが聞いたのは、何か別の音だろうということになった。
[3] @だが、彼らを観察していると、時として互いに情報を伝え合っているとしか思えない場面に出会う。
[4] @例えば、コククジラの群れでは、一頭がおとりになって、敵から群れの仲間を別の方向に逃がすことがある。A逃げる群れを九十度の角度で曲がらせた先頭の一頭が、逆もどりして、目立つように泳ぎながら、仲間とは別の方向に一直線に進むのである。Bおとりになるのはよほど泳ぎに自信のあるクジラらしく、一頭で逃げきってまた仲間の群れに合流する。Cそうしたことから、研究者たちは、クジラには情報を受信・発信する何か優れた手段があるにちがいないと考えるようになった。
[5] @では、その「手段」とは、いったいなんだろうか。
[6] @二十世紀後半になり、録音技術が向上して、クジラの鳴き声がとらえられた。Aクジラが鳴くということが、ようやく証明されたのである。B調べてみると、クジラは、鼻の奥に続く気道にあるいくつかの袋を使って音を出していた。Cそのため、声帯がなくても鳴くことができたのであった。Dそのうえクジラは、人間の耳には聞こえないほど低い音から、これも人間には聞こえない超音波とよばれる高い音までを出していたので、録音することも難しかったのである。
[7] @しかもクジラたちは、短く高い音と、長く続く低めの音の二種類を、目的に応じて使い分けていた。
[8] @短いほうの音は、「クリック」とよばれる。Aこれは周りの様子を知るための音である。Bクジラの聴覚は非常に発達している。C自分の発したクリック音が周りの物に当たり、はね返ってくるのを聞き、それがどのくらいの大きさなのか、何でできているのか、また、止まっているのか動いているのかなどを察知する。Dこのような知覚方法をエコロケーションという。
[9] @さらに、自分たちのえさとなる魚たちが、どの方向へ、どのくらいの速さで進んでいくのかも、このクリック音の反射で把握していく。Aこれは、人間が海中を探るために使う音響探知機と同じ仕組みである。
[10] @もう一つの、低い連続した音は、「ホイッスル」とよばれる。Aこれは、主として仲間どうしのコミュニケーションに用いられる。Bいわばクジラたちの「言葉」といえるだろう。Cおもしろいことに、同じ種類のクジラでも、群れによって使われるホイッスル音は違うことがある。Dそれぞれの群れは、その群れに特有な音を使って、その群れにしか通じない方法で情報を伝え合っているのかもしれない。
[11] @ザトウクジラは、このホイッスル音で「歌」を歌うことが知られている。A五分から二十分くらいの間隔で、まるでメロディのように、ひとまとまりの決まった音をくり返しくり返し発するのだ。Bこうした音を発するのは、成熟した雄のザトウクジラであり、その期間は繁殖の時期が中心となる。Cこのことから、ザトウクジラの「歌」は、主として雌や、ライバルとなる雄に自分の存在を示すためのものであろうといわれている。
[12] @それでは、クジラたちは、なぜこのように巧みに音を使って、周りの状況をとらえたり、情報を互いに伝え合ったりするようになったのだろうか。
[13] @彼らは、光の届きにくい海の中で生活している。Aこうした海の中では、二十メートルほど先を見わたすのがやっとである。B目で見る情報はとても頼りないものとなる。
[14] @しかし音は、たとえ暗やみだろうと響きわたる。Aそのうえ水中では、音は陸上の五倍という驚くべき速さで伝わるのである。B音こそまさに、海の中での情報の受信や発信にはうってつけの手段であるといえよう。
[15] @クジラたちは、自分たちの暮らす環境の中で、その体の特徴を生かしながら、周りの情報を得たり、得た情報を互いに伝達し合ったりしながら生活しているのである。

私の読み研方式による教材分析

教材文 文・段落関係 分析
クジラたちの声   中島将行



[1] @大昔から船乗りたちは、船がクジラの群れに近づくと、低く不気味な音が船底にこだまするのを知っていた。A彼らはそれをクジラの鳴き声だと信じていた
[2] @しかし、当時の研究者がいくらクジラの体を調べても、声を出すために必要な声帯は見つからなかった。A人々は、声帯がない以上、鳴き声を出すことはできないはずだと考え、船乗りたちが聞いたのは、何か別の音だろうということになった。
[3] @だが、彼らを観察していると、時として互いに情報を伝え合っているとしか思えない場面に出会う
[4] @例えば、コククジラの群れでは、一頭がおとりになって、敵から群れの仲間を別の方向に逃がすことがある。A逃げる群れを九十度の角度で曲がらせた先頭の一頭が、逆もどりして、目立つように泳ぎながら、仲間とは別の方向に一直線に進むのである。Bおとりになるのはよほど泳ぎに自信のあるクジラらしく、一頭で逃げきってまた仲間の群れに合流する。Cそうしたことから、研究者たちは、クジラには情報を受信・発信する何か優れた手段があるにちがいないと考えるようになった




[5] @では、その「手段」とは、いったいなんだろうか。







[6] @二十世紀後半になり、録音技術が向上して、クジラの鳴き声がとらえられた。Aクジラが鳴くということが、ようやく証明されたのである。B調べてみると、クジラは、鼻の奥に続く気道にあるいくつかの袋を使って音を出していた。Cそのため、声帯がなくても鳴くことができたのであった。Dそのうえクジラは、人間の耳には聞こえないほど低い音から、これも人間には聞こえない超音波とよばれる高い音までを出していたので、録音することも難しかったのである。
[7] @しかもクジラたちは、短く高い音と、長く続く低めの音の二種類を、目的に応じて使い分けていた。
[8] @短いほうの音は、「クリック」とよばれる。Aこれは周りの様子を知るための音である。Bクジラの聴覚は非常に発達している。C自分の発したクリック音が周りの物に当たり、はね返ってくるのを聞き、それがどのくらいの大きさなのか、何でできているのか、また、止まっているのか動いているのかなどを察知する。Dこのような知覚方法をエコロケーションという。
[9] @さらに、自分たちのえさとなる魚たちが、どの方向へ、どのくらいの速さで進んでいくのかも、このクリック音の反射で把握していく。Aこれは、人間が海中を探るために使う音響探知機と同じ仕組みである。
[10] @もう一つの、低い連続した音は、「ホイッスル」とよばれる。Aこれは、主として仲間どうしのコミュニケーションに用いられる。Bいわばクジラたちの「言葉」といえるだろう。Cおもしろいことに、同じ種類のクジラでも、群れによって使われるホイッスル音は違うことがある。Dそれぞれの群れは、その群れに特有な音を使って、その群れにしか通じない方法で情報を伝え合っているのかもしれない。
[11] @ザトウクジラは、このホイッスル音で「歌」を歌うことが知られている。A五分から二十分くらいの間隔で、まるでメロディのように、ひとまとまりの決まった音をくり返しくり返し発するのだ。Bこうした音を発するのは、成熟した雄のザトウクジラであり、その期間は繁殖の時期が中心となる。Cこのことから、ザトウクジラの「歌」は、主として雌や、ライバルとなる雄に自分の存在を示すためのものであろうといわれている。















































[12] @それでは、クジラたちは、なぜこのように巧みに音を使って、周りの状況をとらえたり、情報を互いに伝え合ったりするようになったのだろうか。
[13] @彼らは、光の届きにくい海の中で生活している。Aこうした海の中では、二十メートルほど先を見わたすのがやっとである。B目で見る情報はとても頼りないものとなる。
[14] @しかし音は、たとえ暗やみだろうと響きわたる。Aそのうえ水中では、音は陸上の五倍という驚くべき速さで伝わるのである。B音こそまさに、海の中での情報の受信や発信にはうってつけの手段であるといえよう。



[15] @クジラたちは、自分たちの暮らす環境の中で、その体の特徴を生かしながら、周りの情報を得たり、得た情報を互いに伝達し合ったりしながら生活しているのである。
前文なし

[1](@+A) …@とAは、時間的には同時の出来事。内容的に違うので、@とAはともに柱の文。
+ …(注1)
[2](@⇒A) …@が、Aの理由。ただし、@の後の出来事がAなので、/@+A/という記録文として把握した方がよいのかもしれない。
+ …(注2)
〔[3]=[4](@+A+B)〕⇒[4]C …[3]の「互いに情報を伝え合っているとしか思えない場面」の詳しい説明が、[4](@+A+B)。それを前提として、[4]Cの出来事につながる。だだし、ここも、〔[3]=[4](@+A+B)〕の後の出来事が、[4]Cなので、/〔[3]=[4](@+A+B)〕+[4]C/という記録文として把握した方がよいのかもしれない。([3]〜[4]Bの文末は、現在形になっているが、研究者たちが観察した事実が、/[3]〜[4]B/に記述されているととらえる。)

(注1)[1]段落の後の出来事が[2]段落。[1]と[2]は、記録文。
(注2)[2]段落の後の出来事が[3][4]段落。ここも記録文。

[3][4]→[5] …[5]段落の「その『手段』」について詳しく説明しているのが、[3][4]段落。
[5]段落は、「クジラが情報を受信・発信する手段とは、何か」という本文Tを支配する小問題提示。問いと答えという関係では、私は「問いを柱」とする立場に立つ。従って、本文Tの論理関係を大きくとらえると、次のようになる。
    説明 問い  答え
([1]〜[4])→[5]←([6]〜[11])

[6]+[7] …主として記録文で構成されている。

     詳しい説明
[7]← 〔 ([8]+[9]) + ([10]+[11]) 〕
…[7]の「短く高い音」をどのように「使い分けていた」のかの詳しい説明が、([8]+[9])。
[7]の「長く続く低め音」をどのように「使い分けていた」のかの詳しい説明が、([10]+[11])。

本文Tを論理関係を詳しく図示すると

    説明 問い  答え
([1]〜[4])→[5]←([6]+{[7]←〔([8]+[9])+([10]+[11])〕})

([1]〜[4])を前文としない理由
A ([1]〜[4])は、[5]の小問題提示を引き出す役割をしている。
B 光村の指導書P136に/この教材は、「導入・本文・まとめ」の枠組みになっている。「導入」の部分は、「ちょっと立ち止まって」と同様に、文章全体の問題提起的役割を担っている。そのうえで「本文」の部分で、「〜だろうか」といういい方で、より明確に問題を提起し、答えている。(中略)また、ひと口に「問い」といっても、明確に問いかけの形を取る場合とそうでない場合とがある。この教材の「導入」には、「情報を伝え合っているとしか思えない場面」「クジラには情報を受信・発信する何か優れた手段があるにちがいない」などの提示はあるが、明確に問いかけてはいない。だが、そこには文章全体に向けての問題提起的役割がある。/とある。
◎私は、[1]〜[7]段落までの書かれ方が、主に時間を軸にした記録文になっているとみる。

[1]@大昔から船乗りたちは、……知っていた。
A彼らはそれをクジラの鳴き声だと信じていた。
[2]@しかし、当時の研究者が……調べても、…声帯は見つからなかった
A人々は、……と考え、……ということになった。
[3]@だが、彼らを観察していると、……に出会う。
[4]Cそうしたことから、研究者たちは、……と考えるようになった。
[6]@二十世紀後半になり、録音技術が向上して、クジラの鳴き声がとらえられた。
Aクジラが鳴くということが、……証明されたのである。
B調べてみると、クジラは、……を使って音を出していた
C…、声帯がなくても鳴くことができたのであった。
D…クジラは、……低い音から、……高い音までを出していたので、録音することも難しかったのである。
[7] @…クジラたちは、短く高い音と、長く続く低めの音の二種類を、目的に応じて使い分けていた

時に関係する語句を水色のラインマーカー、クジラを調べてわかったことを黄色のラインマーカーを施した。
すると、[1]〜[7]段落までは、「人間がクジラの鳴き声をどのようにとらえてきたのかの歴史的経緯が、主として記録文で書かれている」ことがわかる。つまり、[1]〜[7]段落までは、一続きの内容とみるべきである。
◎光村の指導書は[4]段落の「情報を伝え合っているとしか思えない場面」「クジラには情報を受信・発信する何か優れた手段があるにちがいない」をとらえて「文章全体に向けての問題提起的役割」とみている。が、[4]段落は、「研究者が科学的に証明できない時点で/クジラには情報を受信・発信する何か優れた手段があるにちがいない/と推論している段階の内容である。もし、[4]のC文に続いて次のような文があるのならば、「文章全体に向けての問題提起的役割」があるといってよいのではないかと思う。
/とはいえ、現実にはクジラたちの情報交換の手段についてはなかなか解明できなかったのだが、録音技術の向上した二十世紀後半になり、クジラの鳴き声がとらえられたのである。/
しかし、教材文はそう書かれていない。理由Aのとおり、/ ([1]〜[4])は、[5]の小問題提示を引き出す役割をしている。/のであって、指導書の/明確に問いかけてはいない。だが、そこには文章全体に向けての問題提起的役割がある。/という記述は、適切とはいえないと考える。


[12]〜[14]は、本文U。本文Uの論理関係は以下の通り。

    柱
問い [12]← 答え ([13]+[14])

[13]段落内の文関係

(@+A)⇒B …@とAが、Bの理由。

[14]段落内の文関係

(@+A)=B …@とAをまとめた内容が、B。
あるいは、[13]段落内の文関係と同じで、/(@+A)⇒B …@とAが、Bの理由。/とみることもできる。

[15]は、本文Tと本文Uを要約したまとめ。後文。

「要約指導」の2タイプ   http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2006/06/index.html

  中1(光村図書)の国語の教科書に『クジラたちの声』の要約指導を行う。
  例えば、@A段落を、まとめて要約する。
===================
@大昔から船乗りたちは、船がクジラの群れに近づくと、低く不気味な音が船底にこだまするのを知っていた。彼らはそれをクジラの鳴き声だと信じていた。

Aしかし、当時の研究者がいくらクジラの体を調べても、声を出すために必要な声帯は見つからなかった。人々は、声帯がない以上、鳴き声を出すことはできないはずだと考え、船乗りたちが聞いたのは、何か別の音だろうということになった。
====================
 長々と文をつなぐのは難しいから、この場合は「キーワード」に着目させる。
 「大昔」「クジラ」「不気味な音」「鳴き声」「研究者」「声帯」「別の音」あたりがキーワードになるだろうか。
 ぎりぎり絞って「クジラ」「鳴き声」「声帯」の3つである。
 つまり、この3つのキーワードが入った文を自分で考えればいいわけだ。

A)大昔、船底にひびく不気味な音をクジラの鳴き声だと信じられていたが、声帯がないので違うと考えた。

B)クジラには声帯がないので、船底にひびく不気味な音は鳴き声ではないと考えられた。

 ちなみに、要約のポイントとしては「クジラ」を何度も使わないことも挙げられる。
 同じ言葉を繰り返すのは文字数がもったいないのである。

 続いてBCを要約する。
======================
Bだが、彼らを観察していると、時として互いに情報を伝え合っているとしか思えない場面に出会う。
C例えば、コククジラの群れでは、一頭がおとりになって、敵から群れの仲間を別の方向に逃がすことがある。逃げる群れを九十度の角度で曲がらせた先頭の一頭が、逆もどりして、目立つように泳ぎながら、仲間とは別の方向に一直線に進むのである。おとりになるのはよほど泳ぎに自信のあるクジラらしく、一頭で逃げきってまた仲間の群れに合流する。そうしたことから、研究者たちは、クジラには情報を受信・発信する何か優れた手段があるにちがいないと考えるようになった。
=======================
 この2段落は、キーワードで考えるより、トピックセンテンスで考えた方が早い。
 この2段落をまとめているような1文を探すのである。
 すると「そうしたことから・・・」という統括の言葉があるから最後の1文がいい。

そうしたことから、研究者たちは、クジラには情報を受信・発信する何か優れた手段があるにちがいないと考えるようになった。

 この1文を縮めてみる。

◆研究者は、クジラには情報を受信・発信する手段があると考えた◆

 1段落ずつ要約をしなかったのは、全部検討したら多すぎてうんざりするかもしれないことと、段落によっては非常に短くて要約する意義が見いだせないからだ。
 ちなみに、BCのトピックセンテンスとして選んだ「そうしたことから、研究者たちは、クジラには情報を受信・発信する何か優れた手段があるにちがいないと考えるようになった」の一文だけ改行して1段落として独立させることができる。自分が筆者だったらそうする。
 1文1段落を多用する人もいるので、段落指導を1段落ずつやるか複数段落で扱うかはケースバイケースということになると思う。

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井上秀喜の「竹田博之氏の要約指導の2タイプ」についての質問とコメント

質問1…キーワード着目の要約法とトピックセンテンス着目の要約法の二つのタイプをどのように生徒たちに選択させるのか。どちらの要約法をつかったらよいのか生徒が見分けるポイントをご提示いただけますか。
質問2…キーワードは、どういう観点から文章中から抜き出すのか。キーワードを抜き出すポイントをご提示いただけますか。

井上の予想する回答とコメント…たぶん竹田氏は、トピックセンテンスが明確な場合は、トピックセンテンス着目の要約法を選択し、トピックセンテンスが明確でない場合は、キーワード着目の要約法を選択すると回答なさるのではないかと私は予想している。私は、読み研方式で「柱」という概念を使って説明的文章を読みとるときに、実際の教材にあたってみると「柱」を明確に見つけることができずに困ることがこれまで多かった。そういう点からいうと、竹田氏の二つのタイプの要約法は実践的に活用できるように感じた。ただ、キーワードを抽出する目安を提示できなければ、キーワードの抽出ときに「揺れ」が生じ、生徒が自力で要約することができないと考える。

さて、記録文要素をもつ[1][2]段落を要約することはどうすることなのか。

 私の「読み研方式による教材研究」によると、この[1][2]段落は、記録文(時間の順序で書かれている)ので、[1][2]段落のすべての文は「柱の文」ということになる。竹田氏のいうトピックセンテンスは、この[1][2]段落にはない。その点では、竹田氏の読みを支持する。読み研においては、トピックセンテンスと「柱の文」とはイコールではないと私は理解している。
 では、記録文として書かれた[1][2]段落を要約するとはどうすることなのか、井上の考えを述べる。記録文には2種類あると大西忠治氏は指摘している。「みたまま記録」と「まとめ記録」である。「みたまま記録」は、文から文に移るときの時間が短く(短時間の出来事を多くの文を使って記録する書き方)、具体的な描写が多いタイプ。「まとめ記録」は、文から文に移るときの時間が長く(長時間の出来事を少ない文を使って記録する書き方)、概括的な表現が多いタイプ。この[1][2]段落は、「まとめ記録」とみる。そうすると、基本的に「まとめ記録」は、まとめてあるのだからそれほど短く要約する必要はない。(すでに要約してある書き方であると私はみる)しかし、あえて要約するならば、どうするか、井上の要約案を提示してみる。

@大昔から船乗りたちは、船がクジラの群れに近づくと、低く不気味な音が船底にこだまするのを知っていた
A彼らはそれをクジラの鳴き声だと信じていた

[1]段落は、「船乗りたち=彼ら」を主語とする二文から構成されている。要約するときに、主語を一つにすることができる。A文の「それ」という指示語の内容が、@文に書かれているので、具体的な内容を@文から補う。

井上の[1]段落の要約案
 大昔から船乗りは、船がクジラの群れに近づくときに聞こえる船底に響く音を、クジラの鳴き声だと信じていた。

@しかし、当時の研究者がいくらクジラの体を調べても、声を出すために必要な声帯は見つからなかった。
A人々は、声帯がない以上、鳴き声を出すことはできないはずだと考え船乗りたちが聞いたのは何か別の音だろうということになった

[2]段落は、主語が異なる二文で構成されている。「当時の研究者が」と「人々は」の二つの主語が出てくる。ここで問題になるのは、「人々は」の指し示す範囲である。「当時の研究者」も含めた「人々」なのか、「当時の研究者」を含めない「人々」なのか、「船乗り」を含めた「人々」なのか、「当時の研究者」も含み「船乗り」も含む「人々」なのか、「当時の研究者」も含まず「船乗り」も含まない「人々」なのか。
[1]段落の/大昔から船乗りたちは、……知っていた。彼らは……信じていた。/の「昔から」という語句からすると「昔からある時点に至るまで」という幅のある時間を指しているとみると、「船乗り」は「人々」には含まれないとみてよいのだろう。ただ、「当時の研究者」が「人々」に含まれるのか、含まれないのかは、判然としない。
また、「何か別の音だろう」と結論づけた内実もあいまいである。クジラの鳴き声ではないが、クジラの出す音と考えたのか、それとも、クジラ以外の別の音と考えたか、あいまいである。
「人々に当時の研究者が含まれない」とすれば、「声を出すために必要な声帯」がなくても、クジラには音を出す方法があるのではないかと「当時の研究者」は考えていた可能性があることになる。含まれるとすると、「当時の研究者」も「船乗りたちが聞いた音は、クジラの鳴き声ではない」と結論づけたことになる(ただし、「何か別の音だろう」というあいまいな表現からすると、クジラの鳴き声ではないが、クジラの出す音と考えたのか、それとも、クジラ以外の別の音と考えたか、はっきりしないが)。

井上の[2]段落の要約案
 しかし、当時の研究者には、クジラの声帯は発見できず、人々は、船乗りたちが聞いた音はクジラの声以外の音だろうと結論づけた。

井上の[1][2]段落の要約案
 大昔から船乗りは、クジラは鳴くと信じていたが、当時の研究者には、クジラの声帯は発見できず、人々は、船乗りたちが聞いた音はクジラ以外の音だろうと結論づけた。

竹田氏の要約の問題点

A)大昔、船底にひびく不気味な音をクジラの鳴き声だと信じられていたが、声帯がないので違うと考えた。

B)クジラには声帯がないので、船底にひびく不気味な音は鳴き声ではないと考えられた。

竹田氏の要約の問題点は、[2]段落で井上が要約しようとして必然的に問題になる主語についてふれることなく、要約が完成してしまう点にある。誰が考えたのかという主語を隠した形で要約が完成する(A・Bともに)。また、A案だと誰がクジラの鳴き声だと信じていたのかも隠されてしまう。つまり、竹田氏の要約は、日本語では、主語を省略しても文が成り立つというあいまいさによりかかった要約になってしまっている。(もともと主語がはっきりしない教材文([2]段落は特に)なので、しかたがないのかもしれないが)
竹田氏は、「読解力」=けんか読み のところでこの[1][2]段落の問題点をご指摘になっているので、もしかすると、この主語問題については当然授業で触れた上で、主語の省略された要約を採用しているのかもしれないが。

では、[3][4]段落の要約について考える。

[3]@だが、彼らを観察していると、時として互いに情報を伝え合っているとしか思えない場面に出会う。
[4]@例えば、コククジラの群れでは、一頭がおとりになって、敵から群れの仲間を別の方向に逃がすことがある。
A逃げる群れを九十度の角度で曲がらせた先頭の一頭が、逆もどりして、目立つように泳ぎながら、仲間とは別の方向に一直線に進むのである。
Bおとりになるのはよほど泳ぎに自信のあるクジラらしく、一頭で逃げきってまた仲間の群れに合流する。
Cそうしたことから、研究者たちは、クジラには情報を受信・発信する何か優れた手段があるにちがいないと考えるようになった。

竹田氏は、[4]のC文をキーセンテンスとみている。私は、[3]の@文と[4]のC文とを柱の文とみる。従って、要約するときは、[4]のC文の「そうしたことから」の指示内容を、[3]の@文で補う方向で要約を考える。ただ、[3]の@文が前提となって、[4]のC文の結論(仮説)が導かれると考えると、竹田氏のように[4]のC文のみをキーセンテンスとして把握する読みも成立する(私の読み研方式による教材分析でもその読みの可能性を指摘している)。しかし、研究者たちの仮説が導かれる過程を含めるには、[3]の@文と[4]のC文とを柱の文とみるのがよいとここでは判断して[3][4]段落の要約案を提示する。[3][4]段落も基本的には記録文とみてよい。

井上の[3][4]段落の要約案
クジラたちが互いに情報を伝え合っているとしか思えない場面が観察され、研究者たちは、クジラには情報を受信・発信する手段があると考えるようになった。

[3][4]段落における省略主語問題
[3][4]段落の要約をするときに、また省略された主語が問題になる。

その問題の1文は、以下の1文である。
[3]@だが、彼らを観察していると、時として互いに情報を伝え合っているとしか思えない場面に出会う

誰が「観察している」のか、誰が「出会う」のかはっきりしない。「当時の研究者」なのか、[4]段落の「研究者たち」なのか、「人々」なのか、「船乗りたち」なのか、はたまた「筆者(中島将行)」なのか。私は、「クジラたちの声」の冒頭部分が記録文であるとみているので、[4]段落の「研究者たち」を指すと読む。従って、/[4]@例えば、コククジラの群れでは、一頭がおとりになって、敵から群れの仲間を別の方向に逃がすことがある。A逃げる群れを九十度の角度で曲がらせた先頭の一頭が、逆もどりして、目立つように泳ぎながら、仲間とは別の方向に一直線に進むのである。Bおとりになるのはよほど泳ぎに自信のあるクジラらしく、一頭で逃げきってまた仲間の群れに合流する。/という部分を観察したのは、[4]段落の「研究者たち」を指すと読む。ただ、「当時の研究者」と[4]段落の「研究者たち」は同一人物を指すのか、それとも違うのかについてははっきりしないが、記録文として把握すると別人物ととらえてよいと判断する。一応、このような読みを頭に入れて、井上の[3][4]段落の要約案を提出している。つまり、井上の[3][4]段落の要約案では/クジラたちが互いに情報を伝え合っているとしか思えない場面が観察され/と厳密には主語を明確に書かない形にしてあるが、/クジラたちが互いに情報を伝え合っているとしか思えない場面を観察し/と「研究者たち」を明確に主語にする要約も可能だ。
いずれにせよ、要約する中で「省略された主語」を明示しなければ要約は不正確なものになってしまう。実際に授業で取り上げるときは、生徒たちに主語を明確にさせた形の要約をつくらせた方が、文章のあいまいさに気づくことになる。もし、主語が明示できないなら、どういう可能性があるのか、いくつかの要約案(主語の異なるもの)を生徒に考えさせることが重要である。

June 12, 2006 接続語と段落構成 

 中1(光村図書)の国語の教科書に『クジラたちの声』というのがある。
 説明文の授業のパターンとして、形式段落を、意味段落にまとめていく。 
 内容面でグルーピングできるところはグルーピングしていく。
 また、構成面からもグルーピングしていく。
 段落冒頭の「接続語」や「指示語」によって見分けていくのである。
 例えば、5段落までは次の文章である。
===================
@大昔から船乗りたちは、船がクジラの群れに近づくと、低く不気味な音が船底にこだまするのを知っていた。彼らはそれをクジラの鳴き声だと信じていた。

Aしかし、当時の研究者がいくらクジラの体を調べても、声を出すために必要な声帯は見つからなかった。人々は、声帯がない以上、鳴き声を出すことはできないはずだと考え、船乗りたちが聞いたのは、何か別の音だろうということになった。

Bだが、彼らを観察していると、時として互いに情報を伝え合っているとしか思えない場面に出会う。

C例えば、コククジラの群れでは、一頭がおとりになって、敵から群れの仲間を別の方向に逃がすことがある。逃げる群れを九十度の角度で曲がらせた先頭の一頭が、逆もどりして、目立つように泳ぎながら、仲間とは別の方向に一直線に進むのである。おとりになるのはよほど泳ぎに自信のあるクジラらしく、一頭で逃げきってまた仲間の群れに合流する。そうしたことから、研究者たちは、クジラには情報を受信・発信する何か優れた手段があるにちがいないと考えるようになった。

Dでは、その「手段」とは、いったいなんだろうか。
=======================
 @とAは「しかし」でつながれている。
 AとBは「だが」でつながれている。
 BとCは「例えば」でつながれている。
 CとDは「では」でつながれている。
 
 「例えば」でつながれたBとCは、グループとして認識できる。これは分かる。
 では、「しかし」「だが」という逆接でつながれた@とA、AとBはどうしよう。
 逆接というと、意味が変わる印象がある。
 しかし、ベン図と同じで共通項を持った上で違いを述べているので段落はつながっている、というのが私の考えである。生徒も次のような例で納得できたようだ。
◆今日は6時間だ。しかし、明日は5時間だ。
◆国語は得意だ。しかし、数学は苦手だ。
というように、逆接でつながる2文・2段落は強い関連を持っている。
 
 では、「では」でつながれたCとDはどうか。
 「では、次の問題です」「では、また明日」
というように「では」は次の話題に移るときに使う。
 ということはCとDは「では」によって意味が切れる、というのが私の考えである。
 生徒も納得できた。
 よって、

 @ABC / D

というように段落分けできる。
 ちなみにDは「では、その『手段』とは〜」というように「その」という指示語がある。
 段落冒頭の指示語は前段落との強い関連を示す。
 したがって、Dは、それまでの@からCを十分に受けているので@からCと「切れない」という意見も捨てがたい。
 @からCが序論、問題提起を含むDから本論に入る、というのがオーソドックスな分類である。
 指示語と接続語では、接続語の方が影響が強い、と言い切れるかどうかは、もう少し検証してみたい。

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井上秀喜の「竹田氏の June 12, 2006 接続語と段落構成」についてのコメント

 この部分で、竹田氏は指導書でいうところの導入と本論Tとの境目について言及している。竹田氏も、[1]〜[4]段落を独立させて序論とするか、それとも[1]〜[4]段落は[5]段落に続いていくのか、2案を検討している。そして、/では、「では」でつながれたCとDはどうか。「では、次の問題です」「では、また明日」というように「では」は次の話題に移るときに使う。ということはCとDは「では」によって意味が切れる、というのが私の考えである。/と述べ、[1]〜[4]段落を独立させて序論とする案をとっている。
 
 竹田氏の意味段落のまとめ方は、/説明文の授業のパターンとして、形式段落を、意味段落にまとめていく。内容面でグルーピングできるところはグルーピングしていく。また、構成面からもグルーピングしていく。段落冒頭の「接続語」や「指示語」によって見分けていくのである。/と冒頭に記述してある。竹田氏は、グルーピングするときの着目点として、段落冒頭の「接続語」や「指示語」を指摘している。そして、『クジラたちの声』の[1]〜[5]段落を例に、/「しかし、だが」でつなぐときは、「強い関連を持っている」。「では」でつなぐときは、「次の話題に移るときに使う。意味が切れる。/と公式化している。

 接続語や指示語に着目して論理の流をとらえることに異論はないのだが、私は説明文の意味段落を決定するときにまず第一に「記録文の要素をもった書かれ方をしているのか(時間の論理)」「説明文の要素をもった書かれ方をしているのか(時間の論理以外)」を見分ける必要があることを指摘したい。この『クジラたちの声』という教材には、「記録文の要素をもった書かれ方をしている(時間の論理)」部分をもった説明文である。とくに竹田氏が取り上げた[1]〜[5]段落も、[1]〜[4]段落は典型的な記録文である。さらに、[6][7]段落も、変則的な記録文の要素をもっている。私は、この[1]〜[4]段落→[6][7]段落と続けて「クジラが鳴くということが、ようやく証明され」るまでの経緯が書かれている点で、つながっていると読む。
 また、問いと答えという論理関係に着目すると、『クジラたちの声』の大きな論理関係(意味段落)をつかみやすい。本文Tは「では、その「手段」とは、いったいなんだろうか。」についてであり、本文Uは「それでは、クジラたちは、なぜこのように巧みに音を使って、周りの状況をとらえたり、情報を互いに伝え合ったりするようになったのだろうか。」についてである。この二つの小問題提示についてどの範囲まで答えているのかによって意味段落が見えてくる。

竹田氏へのお願い
 私自身序論を[1]〜[4]段落とする見方を完全に否定できないのは、[4]段落の/そうしたことから、研究者たちは、クジラには情報を受信・発信する何か優れた手段があるにちがいないと考えるようになった。/という一文が、[5]段落以降の本文を包括しているとも読める点にある。竹田氏は、序論と本論との区切りをどのようにしているのか教えていただきたい。私は、本論以降を包括できる内容を序論がもっていれば、序論として扱い、本論を包括できない序論ならば本論への橋渡しとして序論の部分を本論に組み入れて「序論なし」という扱いにする。

June 14, 2006  「読解力」=けんか読み

 読解力は単なる内容理解の上に、自分の思考判断を加えられるかどうかが問われている。OECDも指導要領も同じである。
  中1(光村図書)の『クジラたちの声』を読んで、段落ごとに一言感想を書かせる。
  例えば、@A段落を、まとめて感想を書かせる。
 今はやりの言葉で言うと「つっこみ」をさせる。
 「ほんまかいな」「そうかなあ」とか「なんでやねん」 「それは分からんやろう」のように・・・。
 まあオーソドックスなのは5W1Hである。
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@大昔から船乗りたちは、船がクジラの群れに近づくと、低く不気味な音が船底にこだまするのを知っていた。彼らはそれをクジラの鳴き声だと信じていた。

Aしかし、当時の研究者がいくらクジラの体を調べても、声を出すために必要な声帯は見つからなかった。人々は、声帯がない以上、鳴き声を出すことはできないはずだと考え、船乗りたちが聞いたのは、何か別の音だろうということになった。
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 ◆「大昔」っていつごろの事? 
 ◆「当時の研究者」っていつの事?
 ◆船乗りや研究者って、日本人?
 ◆声帯がなくても、叩いたり、こすったり、鼻息とかで「音は出せる」って思わなかったのかな? 

 もちろん、生徒からは、こんな鋭い意見はなかなか出ない。
 そこまで意固地にならないし、意地悪くアラ探しなどしないからだ。
 ◆僕も、その音を聞いてみたいなあ。
 ◆どんな音なのかなあ。
くらいが無難な感想である。
 でも、そのような「つっこみ」の意識で本文をよめるかどうかが目的意識を持って文章を読めるかどうかの分かれ目となる。
 宇佐美寛氏は「ケンカ読み」と言った。
 「批評読み」というと「分析批評」と混同しするので、「ケンカ読み」がいい。
 私は、この「ケンカ読み」の実践を知ってから、読みの構えがガラッと変わった。
 批判するには、精読・熟読が必要で、自分の読みの精度が試される。
 何しろ相手は教科書の著者である。簡単に批判できる相手ではない。 
 浅はかな読みで批判をすると「返り血」を浴びることになる。
 だからこそ、真剣勝負ができる。だからこそ、自分の読みの力も鍛えられていく。

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                                                    (2006/08/16 記)

竹田博之氏からのコメント第1弾のご紹介と井上秀喜のコメント


竹田博之氏のホームページに書き込みをしたところ、竹田氏からのコメント第1弾を以下のようにいただいた。ホームページを公開している私にとって竹田氏のようなコメントをいただけることは大変ありがたい。大西忠治氏の「柱」概念について竹田氏の感じる疑問点や限界性をコメントいただいたので、私の考えを少しずつ述べていきたい。大西忠治氏考案の「柱」概念について、現在の読み研でもその問題点などを追求しているので、現時点で明らかにされた読み研での「柱」概念についての研究の成果の上に立ってコメントできればいいのだが、私にそれだけの力量はないので不十分な点などもあることをご理解いただきたいことを最初にお断りしておく。

私も竹田氏と同じく「柱概念」を使って教材分析をしていくとスッキリしない部分(柱がどこなのかよくわからない部分)があると感じてきた。
また、「柱概念」への疑問点を私のホームページに書き込んだり、市販の書籍に掲載されていない読み研運営委員の方の原稿を転載させていただいたりしている。(そういう私自身の悩みと竹田氏の「柱」概念についての問題意識は重なっているので、竹田氏のコメントは興味深く読ませていただいた。)
例えば、私のホームページには以下のような原稿を掲載している。ぜひ、お読みいただき、「柱」概念だけにとどまらず、説明的文章の読み方指導についてみなさんからのご意見をいただければありがたい。

010104  阿部昇著『授業づくりのための「説明的文章教材」の徹底批判』からの学び 01010401  阿部昇氏への質問
010105 研究紀要(科学的「読み」の授業研究会編)からの学び
01010501  小学校低学年の説明的文章読解指導  ―「すみれとあり」(教育出版・小ニ・上)を例に―   柳田良雄氏 への質問
07010102     阿部昇著『授業づくりのための「説明的文章教材」の徹底批判』を徹底批判する
                          にいがた国語の会&にいがた高校国語サークル 著   1998年8月  より
「記録文」の読みは文章のよみの基本である    長畑龍介氏  (P32〜46)
○  阿部昇著『授業づくりのための「説明的文章教材」の徹底批判』を徹底批判する   丸山義昭氏  (P6〜27)
○  『徹底批判』の「柱」設定を検討する  五十嵐淳氏  (P52〜59)
○  『「説明的文章教材」の徹底批判』(阿部昇著)における「補足」と「まとめられ」を検討する
      ――「シンデレラの時計」を中心に―― 五十嵐 淳氏   (P81〜85)
○  文相互の関係を説明する新しい分類は妥当か?
     ――「人類はほろびるか」(日高  敏隆)を再検討する ――  神田  富士男氏  (P76〜80)

まず、竹田氏のコメントを以下四角囲みで引用する。

September 07, 2006    http://take-t.cocolog-nifty.com/kasugai/2006/09/index.html

要約指導〜「柱」概念への疑問〜

 要約指導に関する私のブログ(ここ)に、井上さんという方からコメントをいただいた。
 井上さんの教材分析を見ると、「読み研方式」というか「柱概念」であることが分かる。
 大西忠治氏の書籍を読んで「柱概念」について、少し学んだことがある。
 不確かだが、宇佐美寛氏が「柱概念」を批判していたと思う。そのような文章も読んだ。
 宇佐美氏の論に乗っかるわけではないが、僕も「柱概念」には、疑問というか限界を感じたことがある。

===============
 僕は彼女のことが好きで好きでたまらなかった。
 僕は彼女に電話するかどうか悩みに悩んだ。
 しかし、僕は彼女に電話しなかった。
================

 この3つの文で「柱」を選ぶというのは、どの文を選べと言うことなのだろうか。
 最終結果としての行動・結論として考えたら最後の「電話しなかった」であろう。
 しかし、「電話しなかった」という行動は好きで好きで、悩みに悩んだという結果である。
 そう考えると、私には「柱の文」を見つけるということは、決して簡単なことではないのだと思う。
 教師でさえ、迷い揺れるような概念では授業できないと思うのだ。(続く)

9/10追記
「事後法で裁けない」と同じで、柱概念を意識していない文章を柱概念で分析するのは無理がある。
同じくトピックセンテンスを意識していない文章からトピックセンテンスを抽出するのも無理がある。
「起承転結」も同じで、我々が、いくら起承転結が「ああだ、こうだ」と推測しても、当の作者がそのつもりで書いていないなら仕方ない。
教科書教材を分析していると、「これは分析が無理なのではないか」と思える文章がある。
構成やトピックセンテンスを意識していない文章は、いくら緻密に分析しようにも限界がある。
いや、むしろ緻密に分析すると、破綻するのである。
でを

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竹田氏の取り上げている例文について
  柱の文は一つに絞らなければならないという誤解

竹田氏は以下の例文をもとに、「柱の文」を見つけることの難しさを次のように述べている。「この3つの文で「柱」を選ぶというのは、どの文を選べと言うことなのだろうか。 最終結果としての行動・結論として考えたら最後の「電話しなかった」であろう。しかし、「電話しなかった」という行動は好きで好きで、悩みに悩んだという結果である。そう考えると、私には「柱の文」を見つけるということは、決して簡単なことではないのだと思う。教師でさえ、迷い揺れるような概念では授業できないと思うのだ。(続く)」

私の考えを述べる都合上、@〜Bの文番号を行頭につけておく。

===============
@ 僕は彼女のことが好きで好きでたまらなかった。
A 僕は彼女に電話するかどうか悩みに悩んだ。
B しかし、僕は彼女に電話しなかった。
================

私なら、上の文は基本的に「記録文」の性質を持っていると考えて、すべて「柱の文」とする。@文とA文は、内容が別のこと/@文は、僕が彼女を大変好きなこと。A文は、僕が彼女に電話するか大変悩んだこと。/である。@文とA文の時間の関係は、「@の後の出来事がA」あるいは「@とAはほぼ同時の出来事(ただし、「僕が大好きだから、彼女に電話するか大いに悩む」ということだろうから@の方がAよりも時間的には前の出来事と考えてよい)」である。@A文は、短時間の「僕の心の揺れ動き」を述べたものではなく、ある程度の幅のある時間の「僕の心理状態」を述べているので、「記録文」と把握するのには無理があるかもしれない。「そして、@A文の後の出来事が、B文。」この例文は、「僕」の生活記録のようなものである。
私も「柱と柱以外の関係」をとらえるとき、時間の論理で書かれた部分「記録文」のところに「柱を設定しようとして混乱してしまった」ことが多かった。「柱と柱以外の関係」が設定できるのは、時間の論理で書かれていない部分である。だから、説明文の中の「記録文」要素の部分を見分けることが大事である。意外に文種「記録文」か「説明文・論説文」かの見極めが「柱と柱以外の関係」を把握するときに大事であることは、理解されていない。竹田氏も、その点で混乱している。

もう一点「柱と柱以外の関係」を読みとることの意味の誤解がある。柱と柱以外の関係を読みとるとは、論理関係を読みとることであって、柱を決めることではないと私は最近考えるようになった。柱と柱以外の関係を読みとることは、論理関係の大きな流をとらえる上で生徒にとっては有効である。

次に、竹田氏は以下のように「柱の設定が明確でない文章に、柱の設定をするのは困難」という趣旨のことを述べている。
「「事後法で裁けない」と同じで、柱概念を意識していない文章を柱概念で分析するのは無理がある。同じくトピックセンテンスを意識していない文章からトピックセンテンスを抽出するのも無理がある。(中略)教科書教材を分析していると、「これは分析が無理なのではないか」と思える文章がある。構成やトピックセンテンスを意識していない文章は、いくら緻密に分析しようにも限界がある。いや、むしろ緻密に分析すると、破綻するのである。」

「柱と柱以外の関係」を軸に書かれている説明文であっても、竹田氏が次のように述べるとおり柱の概念による教材分析が困難な教材が存在することには私も賛成である。
「柱概念を意識していない文章を柱概念で分析するのは無理がある。同じくトピックセンテンスを意識していない文章からトピックセンテンスを抽出するのも無理がある。」「構成やトピックセンテンスを意識していない文章は、いくら緻密に分析しようにも限界がある。いや、むしろ緻密に分析すると、破綻するのである。」

そういう教材の問題点については、○『徹底批判』の「柱」設定を検討する  五十嵐淳氏  (P52〜59) の五十嵐淳氏の論考が参考になる。以下、その一部分を四角囲みで転載する。全文は、上のページをご覧いただきたい。

六、「柱」の呪縛を越えて  『徹底批判』の「柱」設定を検討する(五十嵐淳氏 新潟読み研のサークル誌に掲載)

 今まで、「読み研」教師の中には「柱」絶対視の傾向があったのではないか。つまり、説明文や論説文には必ず確かな「柱」があるという思い込みがあったと思うのである。そして、「読み研」の代表的な実践家である阿部氏もその例外ではない。
 しかし、現実には、「柱が弱い」「柱がねじれている」あるいは「柱がない」という場合もあると私は考えている。
 「魚の感覚」を使って、具体的に述べてみよう。
 「魚の感覚」の本文T([2]〜[6])の「柱」の段落の「柱」の文は、[2]の@「いったい、魚には、色がわかるのでしょうか。」であると私は思う。この文は本文Tの冒頭にあって、これから述べることの「柱だて」をしていると考えるからである。
 しかし、この「柱」には欠陥がある。「大小、形のちがいなども区別できること」について述べた[6]を包含していないのである。[6]は視覚を問題にはしているのだが、色の識別以外のことを述べている以上、[2]の@に包含されているとは言えないだろう。
 では、[2]の@を「柱」とすることは不適なのか。
   私はそうは思わない。これは要するに、この「柱」が持つ弱さ・不十分さと考えればよいのである。
 つまり、前文に「赤えぴの赤い色に目をひかれたのでしょうか。」とあるために、色だけを問題にした「柱だて」になってしまったのだが、もともと筆者は「視覚」を意識していたので、「大小、形のちがいなども区別できること」に筆が進み、結果として「柱」の弱さを生むことになったのである。
 「柱がない」場合とは、典型的には記録文的なところがそれに当たる。例えば、前述したように、「魚の感覚」の本文Uがそれに近い。ここは[7]の@が「柱」である。しかし、もしこの段落がなかったとしたら、当然本文Uには「柱」がないことになる。時間の順に記録されたところなのだから、基本的にはそれぞれの段落や文は十(プラス)の関係である。だから、ここに「柱」を設定しようとすること自体が不自然になってくるめである。
 「柱がねじれている」場合とは、「柱」の持つ方向づけに対して、その後の内容がくいちがっているようなことを指す。
 「柱」と「柱」以外の関係になってはいないが、「魚の感覚」の[1]と[2]以降の関係がそれに近いので、例としてあげてみる。

[1] 金魚ばちの中で、金魚が、無心に泳いでいます。そこへ、金魚のえさとして、赤えぴの一きれを投げてやると、水底にいた金魚まで、それを見つけて集まってきます。金魚は、赤えびの赤い色に目をひかれたのでしょうか。それとも、投げこんだときの、かすかな音を聞きつけたのでしょうか。それとも、えびのにおいをかぎ分けたのでしょうか。
[2] いったい、魚には、色がわかるのでしょうか。(中略)魚が実擦に物を見分け、色に感じることができるかどうかを調べるために、科学者たちは、次のような実験をしました。
[3] 青いさらと赤いさらを用意し、青いさらを見せたときは、それにえさをのせてあたえますが、赤いさらを見せたときは、ぽうか何かで、魚をいじめるのです。

 阿部氏も指摘しているように、[1]は問題提示の前文であるといっていい。だから、厳密に考えれば、[2]は当然、金魚の視覚について論を展開すべきである。
 しかし、[2]では魚一般に問題が広がっている。[3]でも、科学者たちの実験ではどんな種類の魚を使ったのか書かれてはいない。少なくとも、金魚ではないようだ。つまり、金魚のことが問題として提示されていたのに、いつのまにか魚一般に問題がすり変わっているのである。
 筆者は最初から魚の視覚を問題にするために、最も身近な魚である金魚をとりあげて読者の興味を引こうとしたのだろうが、以上述べたように、厳密に考えると[1]と[2]以降では問題がずれているといえる。
 このように、「柱だて」した問題がずれている場合をさして、「柱がねじれている」と言ってよいと私は考える。
 (もっとも、[1]の書かれ方は、はっきりした問題提示というより、多分に導入的であるといっていい。事実、[1]の前文としての性格を論議すると、導入・前置きであると主張する生徒が出てくる。したがって、上の例はやや不適切であったかもしれない)
 「完全な文章などない」とは、大西氏がよく言っていたことである。とすれば、「柱」とてその例外ではない。欠陥のある「柱」が存在しても何ら不思議はないのである。
 このような「柱」の欠陥は、当然、構造よみや要約よみのなかで問題にならざるをえない。そして、そのことを指摘していくのが文章吟味の重要なポイントであると思うのだが、「徹底批判」のP76〜77の『「吟味よみ』の方法」を見るかぎり、阿部氏の吟味よみにはそういった視点が弱いと思われる。このことは、阿部氏が吟味よみの過程を独立させて最後に位置づけようとすることと無縁ではない。構造よみや要約よみの中で当然問題となる「柱」吟味の視点がないから、吟味よみを独立させてもいっこうに困らないのである。


では、「柱設定の明確でない教材」はどうするのか。
@柱設定ができない教材(部分)については、生徒に柱の決定について授業では扱わない。
A柱設定が明確な部分を使って、生徒に柱を考えさせる。
B柱の欠陥を生徒が指摘できるのならば、五十嵐淳氏の指摘するように「「柱」の欠陥は、当然、構造よみや要約よみのなかで問題」にしていく。
という授業設計が大事である。           (2006/09/12 記)

人目のご訪問ありがとうございます。 カウンタ設置 2006.8.16